小田原市行政労働組合
小田原市職員には労働組合がない、これは市民にとって幸か、不幸か。たぶん今の時代の風潮では、無くてよかった、というのが普通の市民の反応なのだろう。今更作ろうなんてとんでもない。職員数の削減。給与の引き下げ。こうした声が、市民の主流となっているといえる。労働組合は憲法で保障された労働者の権利である。にもかかわらず、市民意識とのかい離がある。地方公務員はストライキによるような、団体交渉権はないが、人事院勧告による給与の保証がある。8月に今年の横ばいの勧告が出た。市民の生活の現状がひっ迫しているから、当然のごとく世知辛くなっている。民間の平均給与が435万円程度で下がり続けている。小田原市の職員の平均給与は749万円の高値横ばい。自分の仕事が危うい時に、こう言ってしまうと身も蓋もないのだが、給与のためだけの労働組合結成であれば、市民の賛同は得られないだろう。
一方、市の特に現業職員の中には、首切り、臨時雇用、賃金カット、こういう不安が渦巻いていることだろう。そうなると、泡を食って労働組合の結成がすすんでゆく可能性もある。困ったときの組合頼み。組合結成はそういうところから起こるのが、ごく普通であろう。労働者の権利。労働条件の団体交渉による確保。ところが、これだけは市民との関係では不幸なことになる。市民社会が権利という形で、確立されてはいない。
労働組合とは何であろうか。地方公務員の労働組合はどうあるべきか。当然、権利擁護だけが目的ではない。このところを市民に分かるように示さなければ、組合が出来たところで、首切りも賃金カットも防ぐことはできないだろう。現に企業系労組は、資本と対立ではなく、資本の財務状態に従い、企業あっての労働組合を受け入れている。労働組合が市民にとって必要かつ有意義なものでなければならない。労働組合は本来的にはそういうものである。組合員が安心して勤務できる環境の確保は、市民の利益でもある。それは組合員の暮らしが安定して確保されれば、資質を向上し、ふさわしい仕事をこなしてくれる。という意味である。
行政職員の労働組合は、行政職員間活発かつ自由な議論を踏まえ、行政の役割を模索研究し、新たな人材を育てる役割を担うのでなければならない。市職員は何をするべき存在か。このことが今見えにくくなっている。地方分権が進む時代の中で、市民のためといっても、職務の方向は変化してきている。一言に、市の行政職員としての専門職的創造的業務を担い、市民の暮らしを支えてゆく。雑務的事務的職務から、頭脳的創造的職務への変化が求められている。新しい時代の行政職員は、自由で活発な議論の中から生まれる。そうした職員間の信頼に基づいた、自己研修の場が、職員自身が作り出す労働組合こそ作り出せるはずである。
具体的に農業分野をあげれば、国の複雑な農業政策を把握し、補助金の体系を熟知する専門性。加えて日本農業の方向性を理解しなければならない。小田原という地域性と歴史的風土を肌感覚で持っている。そのうえで、どのような農業政策をリードして行けばいいかを、具体的に各農家に情報提案して行く役割が市の職員である。そのような高い構想力をはぐくむ、土壌として労働組合はならなくてはならない。
市民のための行政職員の労働組合を目指す。権利確保のため傾斜した組合では無く、何が行政の義務かを模索する組合。行政の役割を本当の意味で高めるためには、市職員の職場が、自由で、活発な議論が出来る環境が必要である。労働条件によって働くのではない。仕事の目的が各自の生き方と直結しているからやりがいがある。そうした仕事に対する、役割の保証がされてこそ、行政職員の任務が見えてくるのではないだろうか。
昨日の自給作業:タマネギの苗植え付け準備2時間 累計時間:4時間