農業の実践
農業文化論などと大げさに書いたが、一言では「農業は実践する文化」と言いたい。文化というのは、暮らしの実践から生れるものだ。自分が実行出来ないことは言えないのが、農業だと思っている。例えば、除草剤を使うべきでない。こう言う事を言えるのは、除草剤を使わない農業をしている人だけである。田んぼの草取りで泣いたことの無い人には、この思いはわからない。田んぼを草茫々にしておいて、除草剤は使うべきでない等と述べる人は、農業について語るべきでない。発言した所で、誰も相手にもしない。自分が農業をやってもいないのに、農薬は止めるべきだという人の農業論も、人に伝わる事はない。消費者の農業論はだいたいが原理主義的である。農業は実践できないことを云々した所で意味の無いものだ。子供の頃、草取りでは本当に辛い思いをした。これは身に染みている。これが無い人と農業の事を話したくもないくらいだ。
洗濯物に農薬がかかるからと言って怒る人がいる。畑の煙が困るという人がいる。鶏の鳴き声がうるさいと言う人がいる。農業振興地域で暮らしていると言う事は、そう言う事である。農作業小屋で住まわせてもらっていると考えるべきなのだ。そのことを理解しないで、農業地域に暮すほうがおかしい。話は少しそれたが、農業は日本の伝統文化だ。日本人が日本人であるのは、日本の農業によって日本人になった。それは、遊牧するモンゴル人がモンゴル人であるのは、遊牧をしていたからだ。工場労働者になれば、もうそれは正直モンゴル人でなくなる。日本人が失われてきているのは、農業から離れたからだ。もちろん工場労働者の文化というのも無いわけではないだろうが、豊かさには欠けそうなものだ。理屈ではなく、毎日田んぼの水周りによって育つものは、無限の豊かさがある。
文化の形成には長い時間を必要とする。日本の田んぼ文化は2000年の繰り返しによって、培われたものだ。それが、日本の水土になり、日本人のかたぎ、気質までになった。天皇による祭りごと、国家の仕組み、そうした政治というか、話し合いの仕方まで、田んぼによって出来てきた。それは、田んぼをやった事の無い人には、見えないような実践的な方法なのだと思う。寄り合いの相談事には、時間をかける。草取りに時間をかける、毎日炎天下草取りをする。こう言う所から出来上がる考え方がある。きわめて実践的な文化だ。所作から、考え方まで、身体に染み込んだものになっている。そういう土台の上に、部落があり、村があり、国がある。そのすべてが、失われてきた。戦後の日本の姿は、日本人でなくなる年月であった。国際人などと言えば、聞こえはいいが、無国籍人というか、文化的な素養の無い人間の増加。
農業の実践からやり直すべきだ。少なくとも、自分がやれないとしても農業の文化的意味を国家として認めるべきだ。戸別補償などという言葉は、即止めてもらいたい。補償とは何事かと言いたい。何を補い、何を償うと言うのか。農業を行ないながら育たなければ、日本人になれないと言う事を、よくよく知らなければならない。農業が日本人の教育そのものである。学校で行なう、知育など知れたものである。根本的であり、大切である。日本人の成り立ちのような、勤勉とか、我慢強さとか、辛抱とか、観察力とか、工夫する能力とか、こういう物は学校教育で出来たものではない。田んぼで学んだものだ。一つ間違えてはならないのは、田んぼの体験学習をするなど、よほど考え物である。大抵は田んぼを安易に理解したような気にさせる。悪い原因を作っている。生活をかけて、田んぼをしなければ、たいしたことは学べない。