種子の保存
自給自足をするには、種子の自家採種が必要である。江戸時代であれば、そうしたことは地域地域で当たり前の事として行われていた。京野菜、加賀野菜のような固定地域品種の存在。しかし、農産物が商品性を高めるにしたがって、農産物間の競争が高まってゆく。しかも、農産物は19世紀に入って国際取引される商品となる。こうなると、効率の良い、生産性の高い、揃いのいい大量生産に向いた品種。味覚重視の品種に、集約されてゆく。品種の発見だけでなく、より商品的品種の開発競争が起こる。ついには遺伝子組み換え品種まで、現れることになった。ここまで来ると誰しも、何か不安が起こってくる。自然界になかったような作物が現れて、地球の自然体系を壊すところまで行くのではないか。「何のための科学か。」種子についても充分な考察が必要になっている。
世界の野生植物の保存。これはどうしてもやらなければならない状況である。特に、作物となる有用植物の保存は緊急に行われる必要がある。ノルウェーのスヴァールバルには世界中の遺伝子バンクから続々と種子が送られてきており、現在50万種になったという。450万種の保存を目指している。永久凍土の島に深い穴をほって、冷凍保存しようとしている。もちろん、しまって置くだけではない。種子だから、10年もすれば発芽しなくなるものもあるあだろう。種子保存すると言う事は、常に更新すると言う事の方が難しい。それでも、既に遅いともいえるが今残っているものを、保存しなければ大きな損出になる事だけは間違えがない。それは、経済性重視と言う事で、貴重な性格を持った特殊品種がどんどん消えていっている。失われていく作物の中には総合性は無いが、特殊な性能を備えていたと言う可能性がある。
植物ではないが、鶏の品種保存が私の役割と考えてきた。しかし、何十年もかけて結局出来なかった。今からもう一度という訳にも年齢的に行かないから、諦めざるえない事である。一人では出来ないと言う事である。このことは、有機農業研究会や、自然卵ネットワークでも呼びかけたことであるが、反応も無いまま今に来てしまった。国の研究機関では、死んだ中川昭一農水大臣の時に呼びかけがあったが、その後どうなったか。目指した事は、普通に自家採種できる鶏の品種である。そう言う事を農業の中で行おうとすると、連携が必要になる。地鶏一品種の保存は100軒くらいの集落があれば、否が応でも自然に品種の確立がされる。100種の作物の種子保存を続けるだけでも、たぶん1000軒ぐらいの循環の輪が必要である。しかし、1000軒がその気なら、難しい事ではない。江戸時代のどこにでもあった普通の姿である。
スヴァールバルの種子保存には、二つの不安がある。費用を提供している企業が種子を独占しようとしているのではないか。という疑問である。こう言う事があると、集まるものも集まらない事になる。もう一つは、発展途上国の不利になるのではないか。集められた品種が、企業利用の為にだけになるのではないか。あくまで不安であって根拠はない。一方モンサントのようなアメリカの種子メーカーは種子の独占を狙っている。利益追求が企業の目的だから、当然の帰結である。費用を掛けて集めても、投資に見合う見返りがあるのだろう。それを考えると、スヴァールバルの種子保存はやった方が、やらないよりはいい。結局人間の暮らしの方に問題がある。暮らしの循環が絶たれている。分業的になり、個々人が歯車になる。人の暮らしは、本来総合的なものである。全体性を保つ事で、人間は人間になってゆく。