加藤一二三名人

   

奇人変人の珍しくない将棋界でも、加藤一二三元名人は伝説の人で通っている。名人になるような人だから、常人と同じ訳がない。14歳でプロ棋士になった人である。20歳で大山名人に挑戦したときは、神武以来の天才棋士と言われた。敬虔なクリスチャンで聖シルベストロ騎士勲章を戴く、洗礼名はパウロという。流行歌に歌われる坂田三吉さんと同等の伝説の人である。その人が猫の餌やりで、有罪判決を受けた。三鷹の10軒連なる高給テラスハウスで暮らしているらしい。残り9軒の17人の住人に訴えられたのである。何という時代なのかと思う。猫のえさやりぐらいで、何故裁判沙汰なのか。まったく解決能力が無い社会になったものだ。加藤氏はある意味、社会に適合できにくい人なことは確かだ。しかし、将棋が強い。その将棋は極めて一途で求道的である。だから、将棋好きの人の多くが、加藤ファーンになってしまう。坂田三吉氏だって、たぶん社会的には困った所はあっただろう。いや、そうで無くて、誰だって困った所はある。

こまった時にどう解決するか。社会の持つ自己解決能力のようなものが失われて居る事を痛切に感じる。近隣のトラブル解決が、けんか腰から始まる。クレーマー社会。距離の離れた人なら、大抵の人が加藤氏を愛すべき人と感じる。「将棋は戦いであると同時に人に感動を与えられる芸術だと思っています。モーツァルトは200年たっても人々に感動を与えている。私の将棋もそうありたいと願っています。」その発言通りの求道の棋士である。時代を貫いた信念で、ただ勝てば良いというような世知辛い将棋とはどこか違う魅力を持っている。将棋の美学というか、「こちらの方が確かに、勝ちやすいかもしれませんが、でも私ならこうさすんですね。」こう言う発言が多いい。勝ち負けを超えたさらにその奥にあるところまで、行きたいとする姿勢がいい。絵を描いているとき、こうすれば理解される。しかし、それでは何かおかしい。常にぶつかる所である。

17年前から、猫にえさやりを続けてきたらしい。猫を去勢もして、里親活動もしている。正直、これだけなら、何が悪いかはわからない。何かかけ違いがあるのだろう。加藤氏は控訴する。敗訴したからと言ってえさやりを止めないとしている。この問題は根が深い。年間20万匹の猫が殺処分されている。猫の殺処分は増加傾向である。殺処分問題が手付かずで、餌やりだけが云々されている事がおかしい。毎年20万の猫を殺さなければ成り立たない社会が、まともといえる訳が無い。このことに目をつぶっていて、餌やり問題だけを槍玉に挙げてもどうにもならない。ペットの問題でもない。結局人間の暮らし方のことである。野良猫、野外猫と社会の折り合いのつけ方である。餌やり行為の善悪。ルール作り。どうなっているのか。

糞尿被害と騒音が問題になる。新緑を見て嘔吐する社会になる前兆。鶏飼うなど論外であろう。もう一度、人間の暮らしがどうあるべきか、考えてみるべきだ。加藤氏の間違った一手は三鷹のテラスハウスに暮らしたことだ。もうそういうところには、猫を許容する社会は無くなっている。我が家のボス猫のリンちゃんは気に入らないと、布団におしっこをひっかける。確かにたまらなく臭い。だからと言って、そのぐらい許容範囲である。それ以上のものを与えてくれているからだ。人間が生きて死ぬという、短い期間に、どれだけの事を感じて味わえるか。どんどん狭くなっていやしないか。排除の論理はいけない。悪いことや嫌なこと、こう言う事が沢山あって、そういうものも受け入れて、かわしながら生きてゆく。暮らしてゆくは不都合ばかりで当たり前ではないか。不都合を不都合としないところに、暮らしの面白さがある。

昨日の自給作業:草刈1時間 累計時間:20時間

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