平山郁夫氏の死去
平山氏は日本を代表する絵描きとされてきた。原爆を体験し、その思いを仏教の伝来に寄せて、アジアの遺跡を中心に描いた。日本の大家である。若い時代から、期待される画家として注目をされ続け、晩年文化勲章を受章し、誰もが日本を代表する絵描きであると認めないとおかしいような人だ。所が私にはその絵のどこがいいのだか全くわからない。分からないのは、私の見識不足と言う事だと考えれば、いい訳だ。が、どうも似たようなことを言う、絵描きが案外に多いい。この公然の秘密のような風評が正しいのか、間違っているのか。人格の優れた方であることは間違いない。私の、教師時代の同僚はまさに直弟子で、平山氏の旅行にも何度も同行した人だ。その人の話で、平山先生のお人柄や、姿勢については間違いない方だと伺った。しかし、平山氏の実際の制作の手順を聞くことが何度かあったが、信じがたいほど、異質な感じがしたものだ。
日本画というものがそういう物なのかも知れないが、実に間接的描法という感じがした。発表されるスケッチという物ですら、現場で描いたものをもう一度、ホテルに戻って新たな紙に描き直すそうだ。それが素晴しい事だと教えてくれた。スケッチを売ってしまっても、原画が残っていて、本画を書き起こす事ができる。このように説明された。丁寧さが行きすぎて、現場での勢いとか、失敗とかは一切なくなる。もちろんそれを目的に描きなおすのだろう。描き直すのでなく、スケッチを作り上げる。日本画でも現場主義の人が居ないわけではないが、少数派であろう。これは日本画というものが、ふすまや掛け軸という、室内の装飾が主目的で、形作られてきたからだろうか。確かに、公募展の一時だけ飾られて、後は見向きもされない、大半の大作より増しな考え方かもしれない。
平山郁夫氏が亡くなられて、紹介される絵は氏30歳のとき1959年の『仏教伝来』である。素晴しい絵画だ。中学の美術の教科書などにも掲載されている絵である。その絵を超える絵は生涯描けなかったと思う。何も死んだ絵描きをけなそうと言う事ではない。何故、あんなに若い頃素晴しい可能性を持っていた人が、その後、芸術家ではなくなったのか。芸術家として、歩んだ道を誤ったのではないか。この事を自分の生き方として考えてきた。43歳芸大の教授。59歳学長。63歳文化功労者。66歳日本芸術院理事長。68歳文化勲章。79歳死去。絵描きの中のエリート中のエリート。この道が実は絵描きの道ではなかったと言う事を、その絵があらわしていないか。顰蹙をかう絵画。いまだかつてない絵画。自分の描いたことのない絵画。時代を告発する絵画。芸術の最も大切にしたい、自由な精神を発揮できなかったのではないか。常識的な、評価の間違いない所に踏みとどまろうとしているように見える。批判の無い所に身を置くと言う事が芸術の危険な場所ではないか。
悔し紛れにいう訳ではないが、「ああ評価されなくて良かった。」このどこからも誰からも評価されないという事を、大切にして最後まで自分の絵を求め、歩みたいと思う。前の絵の続きを描きたくない。一度描いたものはもう描く必要はない。前に描いた絵より、少しでも展開しているものを。深まっている所へ進みたい。日々暮らしていると言う事が、ある。その生きていることが絵になる。そこに生きている人間が、立派であろうが、なかろうが、その人間の日々の心を表現するのが絵画なのではないか。絵画という出来上がった物がどこかにあるのではないだろう。描く人の精神が表れていない作品は、芸術とは言えない。平山氏が素晴しい才能の方であるのは異論はない。仏教伝来を見れば分かる。問題はその若い才能が持っていた、情熱が、急速に失われてしまった理由を、確認しておく必要がある。