まちづくり研究会
小田原のまちづくり勉強会が開かれた。日置雅晴「景観と住環境を考える全国ネットワーク」代表が講演をされた。学ぶ所がありました。多くの方が、マンション問題で大きなエネルギーを使われ、苦しんでいる実状が良く分かりました。私ならすぐ引っ越してしまうだろう。街の環境の良い事例として、パリが挙げられていたが、暮らした実感としては東京の方が暮らしやすかったと思う。パリは冷たい拒絶感の強い街だ。人間が生きると言う事は、秩序があるとか、美しいとか、そう言う事とは又別であろう。私はマンションという物に暮らしたことはない。人が減り、家が余りだしている。よくないものなら、そのうちマンションに住む人はいなくなる。住む人が居なくなれば、スラム化する。これは西伊豆の別荘地などはまさにこれで、廃墟に成っている所がある。20数年前どこに越すか捜し歩いた頃既にそんな状態だったから、今は山に戻っているのだろうか。そのとき別荘開発地はだめだと思った。
街と言うとき、どうしても住宅地商業地の中心市街地の問題になる。しかし、面積的には街はその周辺部に広がっている。そしてその周辺部には様々な街を支える迷惑施設が点在し、中心市街地は成立している。マンションは煙も騒音も悪臭も有害物質を出す訳ではない。久野には最終処分場あり、ごみ焼却場あり、広域の斎場あり、市の墓地があり、残土廃棄場あり、建築資材置き場数知れず、その無秩序な開発がつづいている。小田原の美しい里地里山も崩壊の危機にさらされている。都市計画がない。あるにはあるが、全く守られない。全体の街づくりの厳格な制限をしないところが、日本的なやり方なのだろう。そのやり方が、弱い所に迷惑なものを押し付けるという、ご都合主義に繋がっているのだろう。マンションは困る。確かに困るがそれを主張している人がマンションに住んでいる、こともよくある。
基本的に駅のそばの中心市街地に住みたいなら、あれこれ我慢すべきだと思う。東京に住みたいなら、さらに我慢すべきだ。我慢しないで、税金で対策をすると言う事は、周辺部のものとしては、困ったアンバランスになる。都市というものがそもそもいらない。この辺りの兼ね合いは難しいが、誰でもごみを出している。ごみは見えない遠くで処理してもらいたい。出す煙も吸いたくない。これは普通の気持ちであろう。しかし、便利な街場で都合よく暮すものが、不便な田舎に暮すものに、迷惑施設を押しつけて平気でいる。こんな反発的気分が田舎側にあることに、気付く必要はあるだろう。隣のマンションは困るという話だけ聞くと、街と言う所はそういう自己本位なところだろう、と思ってしまう。都市は仕事をするのに仕方がないから、利用する所。
街の機能とは何か。駅がある。商店があり。会社がある。役所や病院がある。しかし、それらは街に固執する必要性を失って散らばってゆく。それでも街に暮す多くの人は、街の便利さと環境の良さを同時に求める。ホールはせめて中心市街地だと主張して、駐車場もないような狭苦しいものにする。財産の価値を下げたくないと言う辺りも見え隠れする。建築基準法がおかしい。確かにそうだろうと思う。法の裏をかくような巨大建築物が、利潤の為に作られる。昔は良かった。本当にそうであろうか。国立の駅前のマンション問題が良く話題になる。調和を壊すマンションができて、国立の良い住宅環境が壊される。と言う事らしい。本当に国立が良い住宅環境だと思っているとしたら、良い環境という物を知らないのだろう。国立が住宅地になる前の武蔵野の時代は良かったはずだ。自然というものの中で暮らしたことがないから、国立の住宅地辺りでいいところだと思うのだろう。はやく街を放棄したらどうだろう。私は日置氏に鞆の浦裁判の話が聞きたかった。残念ながらそんな話が出る雰囲気はなかった。聞きたかったが我慢した。