二宮金次郎
小田原出身者で唯一、お札の顔になった人。二宮金次郎。確か1円札だったと思うが。子供の頃誰だかわからず、恐い顔の人だと思った記憶がうっすらとある。最近なるほど、一円か。そう言う事がわかってきた。金次郎というとどうしても農村の復興、こういうイメージがある。これがどうもそう単純でないというのが、だんだんに見えてきた。おむすび日記に猪瀬直樹氏の「二宮尊徳はなぜ薪を背負っているのか?」こういう本が紹介されていた。そこで早速読んでみた。何故、二宮尊徳が難解であったか。これだけは理解できた。一言で彼を低利融資の町金。個人金融業者と考えれば、分かりやすいという話なのだ。私は農村復興というと、どうしても新田開発とか、作物の改良、耕作法の革新。こういう視点で、考えてしまう。どうも銀行とか、お金を借りるとか言うのは嫌いなので、そこを見たくなかったのだろう。利子という仕組みが嫌いだ。背負っている薪は、現金収入を得て、それを貸し付けるためのものだ。こういう観点だ。お金になる仕組みをハッキリさせれば、人間頑張って働く。これが、小学校に銅像が建てられた理由だった。というのだ。
一円札の顔になるのは戦後すぐの事、GHQがこの人物なら何故いいといったか。ここがなるほどと思えてきた。貧しい中で、努力して、立身出世した。なるほどアメリカンドリームに加えて、お金になる事をやりなさい。そう言う事だったらしい。しかしそんな観点だけなら、今更金次郎でもあるまい。お金になるから、サー働けは、今の世の中の基本原理とすでになっている。給与をくれるから、仕事に行く。農業では、国際競争力のある作物を作りなさい。どうも、採算など考えない、楽しい農業などやっていてはいけません。そう言う事らしい。私は鶏を飼いたいの方が強くて、生きてさえいければ鶏を飼い続けたい。鶏は猫好きの猫と同じことだ。採算も無ければ、効率もない。絵を描くのもそうだ。生きてさえいれば、絵が描ける喜びがある。それ以上のこともない。田んぼをやるのもほとんど同じことのようだ。稲を育てる技術が、実に面白い。これをあれこれ試行錯誤してみたい。そっちの方が業としての成り立ちより、大きくなってしまう。そういうあり方は良くないという事を、本当に金次郎は考えたのだろうか。
だから私のやっているのは、「道楽仕事だ。」こう発言して、えらく顰蹙を買ったことがある。不謹慎だという訳だ。しかし、誰もが好きなことをやって暮せる。そういう社会を作り出そうとしているのではないのだろうか。好きな事が仕事になる。好きな事が、他の人達のためにもなる。人間をもっと信用していい。少なくともそう自分を信用してやってきた。確かに役に立つばかりでない。あれこれやるだろう。好き勝手しながら、役に立つ事もやるだろう。人間本当にやりたいことをやれるなら、力を出す。人間結構くだらなくない、と思っている。その本性がくだらないなら、人間などいなくなってもかまわない動物じゃないだろうか。これは父親の教えだ。「好きな事を探すのが、仕事だ。好きな事が見つかればもう大丈夫だ。」繰り返しこういわれた。
農民から、能力があると言う事で、立身出世し経済を任される。これは江戸時代に於いて稀有な例だ。栃木の桜町という疲弊した村の再興をする。荒れ放題の田畑。屋敷も手入れがない。新旧、家柄の差別に着目。4千石が1千石しかお米が取れない。人口の3分の2が土地を離れる。小田原藩からの派遣役人の熱意の無さ。ほとんど不可能に見える、村の再生を行う。この実際の方法が私には見えないのだ。猪瀬氏はファンドだと書いている。ファンドは報徳仕法の基本的な仕組み。猪瀬氏は報徳仕法から解きほぐした、日本農業の再生を、小泉首相に進言し、方向付けができた。と書いている。しかし、この小泉改革の結果が、今の農村の姿だ。猪瀬氏が事例としてあげているワタミファームがどんな展開になって行くかが、興味深い。