二宮金次郎
最近必要があって、二宮金次郎を再読している。色々の人が、二宮金次郎の事を書いているが、和田傳著のものを読んだ。本を読み出すと、連鎖的であれもこれもとなってとどまる所がない。しょうがないので、同時並行的に読んでいる。和田傳氏は大きな著作集が出ている。その内3冊だけは持っている。この人なるほどこのあたりの農民の事をよく知っている。もう少し研究したい。最初に和田傳氏を知ったのは、「鰯雲」と言う映画だ。あっと言うような懐かしい景色で出来ている。となりの秦野や厚木の話だけれど、足柄平野の戦後の空気もそのままの想像される。それは又別の事だけど、この人が二宮金次郎を書いたらどう書くのか。強く興味が湧いた。菜種の栽培に、実の揉みごろということが書いてある。分けなく8升の菜種をもめるらしい。当時油絞り屋さんがあり、8升の菜種の実を持ち込むと、一升5合の油に交換してくれる。こんなことが書いてある点に興味が行く。
私の栽培の経験では、畑で着ていた半てんを広げて、手で揉むと言うのは驚きだ。短時間で8升揉めたというのは、正にその丁度の状態であり、天候の乾きも適切であったはずだ。初めての栽培で、それが見えたというところに、二宮金次郎の類希な、観察眼を感じる。菜種は簡単にはじけてしまう。早めに刈り集め、ハウスで弾けるまで置くのが私には実際的だ。油やと言う屋号は聞くから、油絞り屋さんがあっただろうと思っていたが、実を持ち込めば、その場で油に交換してもらえたのだと言う所が、和田傳氏のなるほどと思える見方だ。金次郎は、その油をその場ではもらわない。つまり今頃の5月の時期には油はもらわない。農閑期の冬場まで油屋さんに預けておく。時間が取れる時に本を読むための油だから、早くもらえば腐ってしまう。ともかく和田傳氏は農業が身に付いた人だと言う事が分かる。
しかし、この人の文学は農民文学という枠とは違う。身には付いているが、農民ではない。私が朝市で「お前が畑をやっているわけがない。」こう言われたように、地べたの空気が違う。吉野せい氏とか、長塚節氏とは立つ位置の感触が違う。このあたりをもっと読んでみたい。これは、自分の立脚点とも関係してくる部分だから。「自給農業、市民農、」のありようが不時着地点として、いくらかの平地があるのか。市民農が平和な暮らしの基盤だという、単純な図式を、再度見直さなければ始まらない。おかしな見方だが、和田傳氏は現実主義者だ。鋭い観察眼ではあるが、どうも理想がない。理想では不確かだが、思想がない。何処へ向かうかの方向性がない。解きほぐしてくれるが、指し示してはくれない。
二宮金次郎を何故再読しているかと言えば、足柄地域の再建は二宮尊徳の作法を、加藤憲一新市長は念頭に置いていると思われるからだ。加藤氏の主張した、市民参加の思想の背景には、尊徳思想を感じる。いわゆる近代的な市民自治とは肌合いが少し違う。選挙戦では、彼を赤だといって批判した人がいたが、市長になれば、今度は保守反動だと言う批判を受ける可能性がある。もちろんどういった批判も勝手ではあるが、彼の目指すところは、知っておく事は重要だと思っている。軍国主義に利用された、二宮尊徳の形がある。地域再生家としての二宮尊徳の形もある。この辺の複雑さと、加藤新市長は重複してくる所がある。私としては、農村再建の達人としての、尊徳をもう少し研究してみたいと思っている。