NHKの公共性
先日、NHKの経営委員会で、古森重隆委員長(富士フイルムホールディングス社長)は海外向け国際放送は「国益を主張すべきだ」と発言した。その後も、釈明が釈明にならず、さらにNHKの公共放送としてのあり方が、問われることになっている。「国益と言うとナショナリズムに結び付きやすいが、国民の大多数のためになること」この辺りが実は、難しい。国民の中にはそれこそ多様で、対極に位置づけられる意見もある。古森氏の言う所では、問題になるのが、少数派の意見である。民主主義国家では、少数意見でも、尊重され、配慮されることになっている。国益は1つではない。それに加えて、ここでは報道という、本来、批判精神をその根本にすえなければならない。社会機能の考え方の問題がある。古森氏の発言の危険は、時の政府の意のままにNHKが報道する。ことになってしまった場合、公共性はどうなるかと言う事である。
確かにそうした国営放送もあるだろう。北朝鮮の国家報道だ。国益を主張している。しかし、これを客観性ある報道とは誰も考えていない。報道は客観的事実を、中立性をもって伝えてゆく、自国の不利益な事実であっても、真実を探求し伝えてゆく。これが不可欠なものであることは、言うまでもないことだ。しかし、言葉では簡単な中立性や、公共性は、在りえる物なのだろうか。例えば、今、六ヶ所の再処理工場で何が起きているか。本格稼動に向けて、どのうような準備がなされ、今どの段階まできているのか。事故が何度かあったが、問題はないのか。このような六ヶ所村再処理工場の真実を調べ伝えるのが、報道の使命であろう。この中には、たぶん、いや必ず、古森氏の考える国益に反する事実が出てくる場合がある。それを掘り下げ伝えてゆくことが報道であろう。
世論というものがある。あるといっても不確かで、煽動され動かされやすい傾向がある。例えば、本質をそらす世論操作というものがある。タイミングとして、ロス事件のサイパン三浦逮捕に、何故という感じがする。米兵の沖縄での狼藉。このタイミングで起こされた。テレビ報道などは、意図的なのかどうか。そちらで時間を潰して、米軍のとんでもない状態は、肝心なところで消えていった。横須賀の運転手殺害の件はどうなっているのだ。歯がゆく報道がない。所が三浦の事は、まだ報道している。ここに報道の姿勢と言う事がある。報道の意図がある。それは当然の事で、見る側もそのつもりで見ている。ありもしない、万民に公平な報道。海外放送では、日本の国益を主張しろとは、随分本音を言ったものだ。国益とは企業利益と言い換えた方が、さらにわかりやすい。
NHKは止めた方がいい。理想論としては、公共性を主張可能に見えるが、実態はNHKの編集者の、主観の主張をしている。職員の不正行為は後を絶たない。同様に編集者の片寄りも人間である以上避けられない。時の権力に対するチェック機能こそが、報道の一番の役割だろう。この姿勢のない報道など、報道に値しない。NHKはその主張を、効果的に機能させるために、公共性とか、中立の報道姿勢を、言い募っているだけだ。国益なら国益主張でかまわないが、それはあくまで、公共放送は止めて、国益放送であると言う事を明確にして欲しい。当然そのときは、国益主張をして欲しいと、考えている人が、費用負担もして欲しい。民放はそうだろう。私はそう思ってみる。だから相当に偏向していても、そんなものだろうというフィルターを掛けてみている。六ヶ所村再処理工場では、現在、第4段階のアクティブ試験を終えて、全体試験の89%を終了した。第5段階最終段階に入っている。