書初め

   

書は楽しい。字を書くことは好きだ。年頭書初めとして、何か書いて玄関に張り出す。今年も「立春大吉」と書いた。何年か続けてだ。本来禅寺の玄関に立春の日に張り出す言葉だ。旧暦でないと感じが出ないのだが、正月を立春と考えるしかない。無病息災と言う事で、民間信仰と結びつきこの日に井戸水を使って摺った、墨で立春大吉と書く。何かまじないもあるが、それは知らないのでやらない。左右対称に書く事になっている。どんなに下手でも霊験は変わらないので、書き直しはしない。これをちょっと凝った形で古い木切れに書いて、入り口に吊るしたりする。入り口に吊るす文字としては、他に「北山雲起南山雨」を書いていた。山北の家がそんな南北に見渡せる、岬のような地形の家だったからだ。これも禅僧の語録にある文字。私はひねって、「南山晴 北山霧」と書いた。山北はいつもそんな天気だったからだ。山小屋の入り口に、その日の天気を出す。そんな感じがいいと思った。

墨を摺るといっても井戸水の方は使うが、銘墨等は持ってもいないし興味もない。リキテックスのアクリルのアイボリーブラックで今年は書いた。今は使わないので、こんな時にしか出番がない。筆が傷むので、後でよくよく洗った。筆のほうはちょっと凝って、中国で手に入れた雪豹の毛。本当ならワシントン条約違反だ。たぶん中国の猫の毛。桂林で10何年か前に何10円。と言うものだったから、そのつもりだけど。そんなインチキっぽいところが気に入っている。その時50本ほど筆を買った。ついでに書いておけば、中国の筆は単一の動物の毛だ。雪豹ならそれだけで出来ている。その動物が実に多様。日本では一本の筆でも中と外では、毛の種類を変える。実に微妙に出来ている。墨の含みがいいし、切れ具合も自由自在。

所が文字は全く中国のほうが良い。漢字文化の国だとしか言いようがない。筆になれた文字だ。書はその人だ。だから上手く書こうとすれば、上手く書きたい人の字に成る。書の展覧会の字は正にそれで、申し訳ないが、感動したことがない。ものごと、大体に単純に成ればなるほど、人次第なのだ。書を見るのは、良い人に出会いたいのであって、書道家はちょと。梅原龍三郎氏の字は、わかり安い。絵よりずーと判り安い。同じく絵描きに中川一政氏の字もすごい。須田剋太さんの字も希に見るものだ。絵も激しいが、字は爆発している。武者小路実篤の字も気に成る。志賀直哉の書に対する見方の中に、実篤の字は良くなかったが、最近の字は良い。と90過ぎて書いている。私には絵をかく人の字に興味があるのかもしれない。

字はいつでも書けるようにしておくといい。書きたくなって揃える様では、もう調子が違う。あまり書くものでもない。やたら書いていると、変に上手くなってしまう。練習するようなものではない。ヘタウマの字を真似るのも良くない。よく出会うが、これが品性のいやらしさがモロ出るので恐い。本人がバレテイナイつもりの所が更に恐い。名前を出して悪いが、相田みつお氏と言う人の字は真似だ。絵で言えば片岡鶴太郎氏のようなものだ。物まね上手と本物とはその背景の人間が違う。所が、本物を見る目がないと。小田原市のように、駅の正面に見苦しい壁画を飾ってしまう。こういうのは流れが去れば誰にでも判るから、今に取り外すのに困ることになるだろう。

昨日の自給作業:ミカンの伐採と最後のミカンもぎ1時間 累計5.5時間

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