すどう美術館
昨日、始めて「すどう美術館」に行った。話は星崎さんから聞いていたのだけれど、迂闊にも尋ねていなかった。昨日はたまたま、学生の頃からの知り合いの2人の彫刻の作家が、作品を出している、と言うことで、案内を戴いていた。案内を見ると、他に以前から注目していた、矢田典子さんの名前もある。丸で、銀座の画廊がそのまま小田原に来た状態だ。生の、今進行している美術が、そのまま見れると言う、以前、菜の花で一之瀬裕さんの個展を見てビックリして以来の、できごと。このことの重大性に気付いた人はどれだけいるかは知らないが、私には、大事件と言える出来事だった。本当に迂闊だった。何というか、精米をしに行くお店の裏に、突然、本当の画廊が、現われてしまったのだ。そのすどう美術館が又相応しい場所にあった。普通の人に発見できるような場所じゃない。たまたま、それこそ日常的に行く、ビーバトザンという、DIYのお店の裏だった。その辺には時どき尋ねる知り合いの家もある。少しも迷わず、行けた。そんな人は間違いなく私が始めてだ。
すどう美術館は銀座に在った時から、少し他とは違う姿勢のある画廊だった。貸し画廊ではあるのだが、美術館と名乗るぐらいで、コンセプトがある画廊だった。水彩人でも、実は借りようとして、申し込んだこともあった。しかし、そのコンセプトに少し異論も出たりして、そこではやらなかった。方向性があるということは、私は好まないと言う人も当然いる。簡単に言えば、抽象志向の作家志望の人達が良くやっていた。だから、興味ある人の個展に出会うことは、めったにないのだが、画廊巡りにはずせない画廊ではあった。矢田典子さんの作品には、そんな画廊めぐりで偶然に出合った。昨年はギャラリーf分の1でやられていた。今の時代の絵だ。それがどう言う事かわ、なかなか判らない。つまり芸術と言うものと言えるのかどうか、判らないのだが、野心的で在り、美しいものである。ともかく引っかかる何かがある。
今回のグループ展の6名の作品は、小田原のすどう美術館で展示するために、制作した作品ではない。他ですでに発表したものを展示したのではないかと思う。これが、小田原の富水という地の「すどう美術館」に飾ることを想定して、制作し発表する作品展が欲しい。各地に私的画廊と言うものが増えている。小田原にも、宙(そら)と言う所が小竹に出来たようだ。根府川の方にも陶芸作家の画廊が在るようだ。そうしたものが町のアチコチにあるのは楽しいことだ。しかし、それとは少し違うありえないものが、出来たのだ。すどう美術館は銀座でも独特なコンセプトがあったように、芸術至上主義的な理想主義があって、これが成立するとしたら、いまだかつてない、全く新たなものであるはずだ。小田原で、最も貴重な種が、蒔かれたのかも知れない。
どんな種か。たぶん、今のところたぶん、としか言えないのだけれど。暮らしと芸術を、原点で結ぼうとしている。銀座の時も、友の会活動を行っていた。見に来る人と作る人を、一体化しようとしているような気がした。私は入らなかった。まだ信頼できない活動に見えていた。民芸運動と言う暮らしに根ざした芸術活動がかつてあったが、小田原の富水で、生活すると言う事と、作品と言うものが、どのように接点を持てるのかが、模索されようとしているのではないのか。これが小田原で新たに蒔かれた種ではないか。この先は、前途洋洋ではなく、前途多難に違いない。この、小田原に出現した、不可思議な空間が、他には絶対に存在していない画廊の場であることは確かだから、一度は立ち会って、みる価値は在る。