化石国日本
日本は温暖化対策の化石国として、NGO組織から名指し批判、表彰された。町村官房長官は事実誤認だと、怒ったそうだが、数値上の現実は直視するしかない。日本が京都議定書を提案したことが、評価されるのでなく、その目標とした所に達した時評価される。現状ほど遠い。ほぼ絶望的だ。仕方がないから途上国から、NO2削減分を購入しようと言う方針に転換した。この辺の欺瞞が、化石国と言う事か。暮らしを変えようんとしないのは、何故なのだろう。人間が滅びを待つ位なら、暮らしを変えるという選択はできないのだろうか。化石国とは良くぞ言った。化石になっても理解が出来ない。化石を見ると、変えられないが為に滅びて行った、無数の生き物が見えてくる。
日本も怒るのではなく、むしろアメリカのように関係ない。と居直ればよかったのだ。インドネシア・バリ島で開催中の国連気候変動枠組み条約締約国会議は、先進国に対し温暖化ガス排出量を2020年までに1990年比で25―40%削減する数値目標の策定を検討する。議長案をまとめた。日本政府は拒否する考えを示している。ポスト京都議定書の枠組みを決めようと言う状況で、日本は数値目標を決められない。交渉を出来ない。などと京都会議でのアメリカの態度と同様の対応をしている。日本のずるさがはっきりと現われている。日本が化石と言われた原因はここにある。建前では、環境立国のような口ぶりをしながら、一向に環境対策に向かわない。例えば、ごみを焼却して、そのエネルギーの10%を回収すれば、エネルギー回収施設だと摩り替えて、焼却場の名称を消してしまう。化石らしい手口だ。問題を直視するには、90%の焼却と言う現実を直視する為にも、焼却場の名を掲げるべきなのだ。
石油がどんどん上がる。下がることもないだろう。まさに温暖化対策だ。出来る限りエネルギーを使わない暮らしを模索するしかない。ノーベル平和賞の前米副大統領のアル・ゴア氏の暮らしなどが、化石に相応しい。暮し方を変えないで、温暖化に貢献しない代替エネルギーを使う、と言う発想。これは迷走を深めるだけの一時しのぎだ。痛みの伴わない、第3の道と言う意味で、評価がされるのだろうが。暮らしを変える苦しい道以外に、不時着地点はない。むしろ、温暖化問題が、暮らしを変えるきっかけ成ることの方が、重要な観点だ。温暖化は人類の危機ではあっても、地球の危機ではない。温暖化で人が住めなくなれば、それで済む事だ。地球の危機と言う意味では、温暖化は小さい。温暖化が問題だから、原子力エネルギーに移行しよう。これでは危機を深めるだけだ。
180円まで上がれば、代替エネルギーが現実になるといわれている。例えば、電力で言えば、風力、太陽光、水力などの、自然エネルギーの電力化。目の前のコストだけ考えて、原子力と言う選択はない。廃棄物会計で学んだが、原子力発電の総合的な会計の思想が必要。安全対策から、周辺地価の下落。撤去の費用などは無論の事、日本製品に対する国際的評価がどう下がるか。自然エネルギーや循環型のシステムとの比較。全てをコスト計算すべきなのだ。ろくに地震対策もしない、発電所を作り、原子力はコストが安い。こういう短絡的な考えではいけない。日本人が将来に希望と誇りを持てる、大きな構想を持つこと。それは日本人が循環型の暮らしの方向を持つこと、これが化石国から蘇る道ではないだろうか。