水彩画の制作
秋に2つの展覧会がある。水彩人&しるべ展の合同展が一つ。もう一つが東京都美術館での水彩人展。どちらも新しい事なので、どうなるのか、自分の中で興味深い。どちらも事務局としてかかわっていると言う事で、案内状やらなにやら、準備と言う事もあり、気が抜けない。それよりも絵のことが少し気になって、どの絵にしようかと思い、描きたまった絵を一通り見直した。田んぼが一段落して、そんな気になった。中から、200枚ほど選んだ。更に、そこから選んで見ようと思っている。発表していない絵の中にやけに、いいものがある。久し振りに見ると、この先の進め方が、分かりそうな絵も目に付く。自分が絵に求め続けているものも、少し分かる。その風景に存在する「動き」。動勢に反応しているようだ。ここ20年描いて来たものを一通り見ると、その流れは見える。
表現自体は、少しづつ変化しているが、描こうとしている内容については、そうは変わらないようだ。自分を取り巻いている空間に引き付けられている。対象物と成る物を、事物を描こうとは全くしていない。見えている物を描いていない。そこに山や、木や、建物や、畑や、海と。色々物はあるのだが、物そのものでなく、そのものを含んだ、あるいはその物が作り出している。空間に対する動勢に関心を向けている。ついでに発表済みも併せて見た。何となく回顧展を一人で見ているようで、面白かった。絵が良くなると言う事はないようだ。違ってはいるが、深くなると言う事もない。ただ、最近は描く内容が、狭められてきているようだ。余分の事をしていない分だけ、絵の面白みはかける。でも、分かり易くは成っている。結局風景を描いた絵以外なかった。
動静を感じている一番の要素が、色彩のようだ。これはある意味不自然な事で、本来の動静は形から来るはずだ。その形には、大して関心がないようだ。形に関心がないのに、空間の動きには関心を持つのか。この辺は自分でも理解できないが、何か色に引っかかりをもち、描きはじめている。そこに心理的な、ある意味神秘主義のようなものが存在し、土地の持つ力、のようなものに反応しようとしている。それは意味のあることなのかどうかは、不明だが。山や、海や、大地、に対しての信仰心のようなものだ。自分をもたらしてくれている者へ、繋がろうと言う様な気持ちが、絵を描かせているようだ。ある意味、極めて個人的な信仰の姿なのかもしれない。神社でかしわ手を素直に打てないが、山を素直に描ける。かしわ手を打つ代わりに絵を描いているとすれば、神を呼び出す手法なのか。
沢山の絵を見ているうちに絵を描きに行きたくなった。最近、家の回りを描いていたい感じがして、田んぼの畦に咲いたアザミを描いていた。アザミを見ていると。その手前には茂みがあり、畦から落ち込んだ向こうには、稲がある。田んぼの水があり、水には空が映っている。この複雑な空間は、めまいがするようで、しかし思いもよらない美しい空間で、渦巻く奥行きがある。又それを象徴するアザミによる焦点となる色が、とりわけ美しい。水が真っ黒の穴のように見えるのも、いい。絵にしてみると、いつも、少しもその感じには近づけない。でも充分面白い。かしわ手を打っていると思えばいい。
水面の空の色を描いていると、そのむこうに夏の海を描いて見たくなった。もうすぐ梅雨も明ける。かっと強い陽射しの海を、描きに行きたい。