山北エコツーリズム
山北でエコツーリズムが計画されているそうだ。友人がプラン作りに参加していて、現状を教えてくれた。県による丹沢の自然環境の大々的な調査が、まとまり、その報告があちこちでされている。人工林として丹沢が開発され、林道が不必要に敷かれ、丹沢の魅力と言っても、自然としてはさしたる物は無い。60年代までなら、都市近郊の自然と言う事で、丹沢登山も成立したが、同じような時間で、東北地方の山でも、日本アルプスでも行ける。状況が整い、今更丹沢に行くと言う人は相当のマニアか、節約家かだ。地域経済には縁が無い。丹沢でエコツーリズムを考えれば、他の何かの魅力に惹かれてと言う事になるのだろう。そこで、暮らしの魅力と言う事が、ウエートが高まる。しかし、山北に現在、暮らしが存在するかと言えば、都会人が魅力を感じる山の暮らし。里の暮らし。いずれも、存在しない。と思ったほうがいい。では農的な暮らしが存在するのかと言えば、それもまたツーリズムとして、受け入れ可能なものは存在しない。農薬散布作業など、ツーリズムにはちょっと考えモン。
自然は、人工林と林道ばかりで、わざわざ出かける魅力が無い。地域に昔ながらの暮らしが無い。そんな環境の中で、エコツーリズムを模索するのは、ひねり出すような物で、やる必要があるのかどうか、これも疑問だ。地域経済の活性化と言う事で、何処でもエコツーリズムを考える風潮だが、山北は条件は相当に悪いと言わざる得ないだろう。今まで破壊し続けたのだから仕方が無いことだ。もしどうしてもやると言うのなら、新しく魅力を創造する以外ないだろう。その覚悟が必要だ。普通はすでにある地域資源を利用して、都会生活者に体験してもらう。これが、基本なのだろうけれども、それが無い、と言う認識に先ず立つ必要がある。丹沢でのエコツーリズムは「作り出す」この考えが無い以上成立不可能だ。
塩沢の奥で、田んぼをやった事がある。塩沢は江戸時代は人が暮していた場所だ。ところが、水害が相次いで、人が住めなくなった。そのために放棄された地域だ。山が荒れれば、そうした事になる。山が荒れたのは、国の林業政策の間違いの結果だ。塩沢の奥に水田跡があった。この場所で焚き火を炊いて、お年寄りの昔話を聞く会があった。そのとき、これを再生しようと言う事になった。これはおもしろかった。山の岩を掘り進めて水が引いてあった。水田が徐々に再生してくると、ここには人工的なものが一切無いことがわかった。別天地である事が、再認識できた。自給自足の人の暮らしの原点がある。。田んぼに入る水を飲む事ができる。こんな田んぼが他にあるだろうか。木を切り小屋を建て、水路を引き。実におもしろかった。困難を極めたが、困難がおもしろかった。
山北はフィールドとしては、おもしろい材料に事欠かない。先ずは人だ。何でもおもしろいと考えて、やり始める人が居て、それに参加する人増え始める。エコツーリズムとして受け入れる段階はその次だろう。最小限の家プロジェクトでも、山北なら法的に可能だ。これをおもしろいと考えて始める人が居る。そのことから、魅力は生まれて来るのではないだろうか。炭焼きでも、おもしろいと考えてやる人が居る事が人をひきつける。薬草園もそうだ。薬草園の管理をおもしろいと考えて、深くやる人が居れば、人は来るようになる。何でもそうだと思うが、人しだいだ。都会の人と同じ感覚で、暮している人と出会いに来るわけではない。