おもしろがる農業

   

農業ほど面白いことはないと思う。色々やってきたけれど、これほど面白い仕事はちょっとないと思う。種をまいて、芽がでると言う事だけでも、充分不可思議でどきどきする。毎年蒔けば出てくるのだけれど。それでも出て来るまで、何度でも見に行く。でてくれば出てきたで、どんな成長になるか、一時も目が放せない。雨が降れ、日が照れ。新月だ、満月だ。足で踏むな、手でやるんだ。土作りだ。もう本当に切りがないほど奥が深い。だから、農が、哲学や宗教になるほどだ。それが、毎日の暮らしでもある。今日食べるご飯の事なのだ。宇宙の事から、日々の日常までが、全く滞りなく一つながりなのだ。こんなおもしろい仕事がある訳がない。また、この仕事は残らない。これもまた清々しくていい。絵など描いていると、物として残ってくる絵の事を、あれこれ思いめぐらしてしまう。

冬水田んぼと言う事がある。ネパールの冬水田んぼは一人当たり1アールだそうだ。これに、野菜が2アールあれば、人一人は生きて行ける。4月1日に冬水田んぼの事で、兵庫県の豊岡から西村さんに来てもらえる事になった。先日は宮城から、民間稲作研究所の岩渕成紀さんに来ていただき、お話を聞くことができた。小田原にいて、有り難い、贅沢なことだ。環境運動、自然保護と農業のかかわり。小田原ではメダカきっかけにして、農業的環境を継続維持する意味を考えたい。実はこの辺が農業の一番おもしろいところだと思っている。業として行いながら、永続性のある未来をきり拓いている実感が持てる。その際たる物が、冬水田んぼだと思う。これは、近代農法が失ってきた逆説的な農法だ。近代農業は化学肥料と、農薬で、経済効率の中から生まれた農業だ。確かに、爆発的に人口増加する人類の未来の展望であっただろう。しかし、その先に待っている大きな破綻が見えてきた。

冬水田んぼの持つ環境調整能力の大きさに、生産が自然の循環の中に組み込めるような、人間の自然との折り合いのつけ方の見事さがある。江戸時代には地域ごとに農法が違うほど多様な、稲作法が存在したらしい。当然の事で自然に織り込むように農法を洗練させてゆけば、地域地域の農法が生まれる。その多様な技術が近代農業によって単一化され、経済性のみのつまらない物になってしまった。除草剤の登場が農家にとって福音であったのは事実だ。辛い除草作業がなくなることはすばらしかったけれど、少しでも草を減らそうと言う、様々な技術も失われてしまった。少し収量にこだわらなければ、おもしろい農業は無尽蔵だ。

絵描きの世界には、「生計を立てることが全ての前にある。」こう考えて、画商と少し不具合な付き合いをしているのも、大目に見合う空気がある。これが絵の世界をすっかりつまらない、商品絵画の世界にした。同じように農の世界も、おもしろがってやるような空気が、不謹慎である。これは生業で遊びではない。田んぼで泥んこになって笑い転げているのを、許せなくなっている。本気で遊べるのが、農業のやりがいだと思う。私が笹鶏の作出を続けているようなことは、大規模養鶏業者にとっては、愚かな事にみえるだろう。確かにまるで無駄と言えば無駄だ。しかし、私にはこんなおもしろいことはない。これがやりたくて生きているようなものだ。この喜びは、大規模養鶏業者には味わえない事だろう。

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