何を描くのか
荒廃農地を描くことが多いい。かつて山であったり、沼地であった場所を、人が、暮らしのために、営々と開いてきた農地が、又自然に戻ってゆく。
小田原では、320ヘクタールが耕作放棄地とされている。このところ、5%ぐらい毎年増え続けている事になる。
柳田國男は自然が美しいのではなく、人間の手が入った姿が美しいのだ。と書いている。私はこのことをいつも考えてきた。
天然林が美しいのか、素晴らしく植林をされた林が美しいのか。太古のままの自然という物はそもそも、美しい物であるのか。自然保護等と言う人がいるが、これは自然という物を絶対として、人口を一切嫌うという事なのか。
そもそも、美しい物を描くということが、芸術であるのかという、論議もある。それは美術ではあるが、Artではない。真実を描くものが、芸術であり、その表層の美にこだわることはない。ところが、美というものが、真実の大きな要素をなしているところに混乱しやすい問題が生じる。
美しい物を美と感じる感性の底には、本能という人間の傾向がある。つまり、鶏にとって美しいのは、ミミズや草の実だったりするのだろう。
私が描きたくなるものは、私を惹き付けるものに違いない、そこを出発点にして、真実近づいてゆく、作業を始める。今はその作業については、置いておいて、どこを出発点にしてきたかを、書いておきたい。つまり、ミミズはどこにいたか。
私がやっと絵を描き始めたのは、15年ほど前である。それまでは訳もわからないまま絵の描き方を学んでいた。大した才能も無いので、それ以外絵に接近する、すべも無かった。絵らしい真似事をしてきた。それぐらい絵を描いてみたかったという憧れがあった。
20年前山北の山中に移住して、自給自足の暮らしを始めた。その頃から、周辺の景色を試しに描くようになった。それまでアトリエで、絵は描くもので、まさか現実の景色を描くなど思うことも無かった。東京での暮らしから離れて、しらけたような感じで、「何を描くか。」という原点に立ち戻る事になった。そこで、初めて、私自身を惹きつける、「美というもの」を試してみる気持ちになった。
理屈抜きに、私が美しいと感じるものを描いて見ることにした。そうしたら、私が描くものは、風呂屋の看板と同じ場所だった。アマチヤ写真家が写したくなる場所であった。私も、そうした場所をただただ描いていた。それが絵だとも思ってはいなかったが、絵が何かがわからない以上、美しい場所を描いてみる以外なかった。その内、描く場所が、徐々に変わってきた。
始めは、波打ち際に惹かれるようになった。何か海という存在と、陸という存在が、せめぎ合っているような、状態に惹かれていた。ある状態から、もう一つに状態に変わろうとする姿に、その最前線のような場所に惹かれた。「崖の眺め」を随分と描いた。
その内、[河口]というものにも興味を持つようになった。川の水が、海に入ってゆく姿は、心ときめく物がある。
もうひとつが、「放棄された農地」である。描く内容を説明したところで始まらないのでしませんが、自然に戻ってゆく姿は、恐ろしいが、美しい。
今はこの3つの題材を描くことが多いい。どれも家の周りの、遠くないところの景色である。自然と人間のかかわりがむき出しになっているところが、今描いている題材になっている。