鶏の自家繁殖・笹鶏
5歳の時小国鶏に熱中して飼い始めて、ちょうどその頃ラジオを聴いていると、日本の鶏が世界一になった。こんなニュースが流れてきた。1年の産卵数が365個に成ったというのだ。
当時はまだ敗戦後の脱力感のような空気が残っているなかで、世界に負けない技術という事が、今のギネス記録とは全く違う形で伝わってきた。よし、自分も世界一の鶏を作ってやるぞ。こう決意したわけです。
農学をやっていた叔父がいたので、どうやればいいのかを、詳しく教わった。目標を立てて、それに向かって選抜し、系統的の交配してゆく。基本的なことを教わりました。
まず、その時新たにもらった、黒チャボがいたので、これをどこからどこまで真黒んものにしてみようと考えました。今思えばこの辺が子供で、何でそんな事をしようとしたかよく解らない。真黒チャボという内種がいることなど全く知らなかった。最後には目の中まで黒いチャボになりました。
その後、「レオポン」に刺激されて、キジとバンタムの交配を試みたり、私の小学生時代は、鶏の交配に明け暮れる事になりました。
その頃からの夢が、自分の鶏を作り出すということでした。20年前、山北町の山中に暮らすようになったことをきっかけに、笹鶏の育種を目指すことにしました。日本が鶏の国であったはずなのに、いつの間にか、鶏種の輸入国になっていたのです。日本のどこで自然養鶏をやろうとしても、フランスやら、オランダやら、アメリカに、基種をお願いしなければならない。こんな情けない状況になっていたのです。当時、1社だけ、日本独自種の作出という事を目指していた会社はありましたが、これも日本の鶏種とはとても呼べない物で、私には納得がいかなかった。
その頃たまたま、青年海外協力隊でフィリピンに行って養鶏の手伝いをしてきた人が見えて、話すには、折角施設を作り、養鶏を始めるところまで進めても、雛を買う費用が無い為に、何年かすると、養鶏を止めてしまうという事を聞きました。
こういう形で、先進国と呼ばれる国に、種が独占されてしまうのかと、わかりました。それなら、自分でとった卵で、次の世代が、継続できる品種の作出は、大事な事だ、これをやってみようと考えました。
本来日本では各地にその土地の鶏がいたはずです。その各部落に鶏がいる状態が、一つの鶏種を継続してゆくのに、適当な状態だったのです。各農家が、鶏を飼い、自家繁殖している。そして、卵をよく産む鶏がいれば、羽色がいい鶏がいれば、ヒナや種卵をもらってくる。そうして、適度な距離間で、適度な交配と、又種の保存が行われて、一鶏種が確立されていた。
この状態は今望むべくも無いが、自然養鶏を行う者の間で、この状態の再現が出来れば、自分達の育種が出来るはずだと考えました。それでまず、自分なりの自家繁殖できる鶏を作り始めたわけです。
やはり日本の風土に適合している事は大切なので、比内鶏を1系統にしました。それにコマーシャルの産卵鶏を掛け合わせました。その後白系統と、赤系統に選抜してゆきました。実用的には2系統を維持し、その交雑で、実用鶏をとるようにする必要があると、考えたわけです。赤系統は割合早く固定できましたが、白系統はだいぶかかりました。
この間様々な要素が入り乱れましたが、その辺を又の機会に書きますが、ともかく7,8年したら鶏が弱くなってきました。最初の方針を決めてから、純系のみで交配しているわけなので、その性だと思います。産卵率、孵化率、育雛率、共に下がりました。しかし、その後も純系で進めてゆくと、何とか継続できる状態に戻りました。
今年も、4回目の孵化に入るところです。一台のフランキが不調で、一台のみで、孵化しているので、中々希望数に達しません。200羽孵すと、私のところの300羽程度の養鶏が継続できます。100羽の雌が毎年供給されると、適度な数が維持されてゆく事になります。問題は、実用鶏とは別に2つの純系を維持してゆく事です。これは正直負担です。営業だけ考えたら、継続できる物ではありません。一軒で続ける限界だと思います。
昔ヤマギシでも、自家系統を模索した事があるそうですが、挫折したそうです。農家一軒で出来る仕事ではないのですが、細々と、私が生きている間は続けてみようと考えています。