友人の多い幸せな人間である。

朋 (とも)有りて遠方より来たる、亦楽しからずや。 全くその通りである。友人と語り合う以上の人生は無いのだとつくづく思っている。71年生きてきて、友人と思える人が、何百人も居ると言うことはどこまでも幸せな人間かと思う。勝手に友人だと思っているばかりなのだが、たぶんお互い友人だと考えても大丈夫だろう。
何百人も友人がいると思っている私でも。友人を作るのはなかなか難しいものだと考える。色々のことをやりたくなって、やっている内にいつの間にか友達が増えてきた。水彩人。あしがら農の会。そして今度始めた石垣島田んぼの会もそうなのだと思う。何か新しいことをやらなければ友人もできない。
最近無くなられた立花隆氏は70歳になった時に、死が身近になり死が怖くなくなったと書かれているが、私はまだ死は怖い。70歳になったときにあと三〇年あると考えることにした。つまりまだ相当先だと考えることにした。
死はまだ身近では無いから、30年間という時間を最大限生かそうと考えた。身体を健康長寿に保てる動禅体操計画に基づき身体は整えている。絵が30年後に最高になるように絵を描く計画を立てた。つまり今の絵は次に描く絵のための勉強であると考えることにした。
友人の話を書いて、何故すぐ死ぬことを書いたかと言えば、年寄は友人がいなければだめになるからだ。孤独を愛せとか、独居の楽しさとか。とんでもない話だ。猫が一匹身近に居るだけで人間は違ってくる。人と交わりがあるから人間だ。できるだけ、ひとりにならないことを考えるべきだ。
石垣島で田んぼの会を始めた。新しい友人に成れそうな人にどんどんお会いできている。この歳で新しい友人が何十人も増えるなど、なかなか無いことではないだろうか。何か始めなければ友達は増えない。老害といわれないように、迷惑にならないように、良い友人として付き合って行きたい。
そして、やってきた田んぼの知識を若い人に伝えたいと思う。田んぼはひとりひとりのやり方があるが、有機農法の田んぼの基本的な方法を石垣島でみんなで見つけたい。必ず、方法はあるはずである。どうやって見つけるかはいままでやってきた私の中に参考になるものがあると思っている。
友人とはお互い話して楽しい人間と言うことになる。年齢も性別も関係なく平たく同じである。おしゃべりな方だから、あれこれ勝手にしゃべっていると言うこともある。最近同じ話を繰り返す傾向があるのは残念なことだが、歳をとるとそうなるわけで、これは心して気をつけなければならない。
談話芸というものがあるとすれば、話をおもしろくする話芸を学びたい。これは隠れた目標であるが、話のおもしろい人間が目標である。おもしろくて為になるというのが生きる目標ではないかと思っている。あいつと何か一緒にやっていると、なんか楽しいよなと言う人間になりたい。
要するに行動である。何か一緒にやらなければ友達にはなれない。生きると言うことで関われば、友人になる。本気で一緒のことをやれば、何か奥にある本当の部分が伝わり合うのではないだろうか。友達はそうして出来たような気がする。
絵を描く仲間はまさにそういう友人である。仲が良いというわけでも無いが、遠慮無く本気で絵のことを話せれば、絵の友達だ。お互い本音で絵のことが話せないのでは、友達では無い。私は誰に対しても絵のことでは思ったことはしゃべってきた。エライとされる大先生には失礼な奴と言うことで、随分怒られたが、それで良かった。
自分がなんたるものか分からない。どこに向かうのかも分からない。その中で、自分の深いところでぶつかり合った友人は、今もそこに居るような気がする。30歳までは自信も無かったし、不安の深い淵に沈み込んで、何故絵を描いているのかも分からないまま絵を描いていた。そういう中での希望が友人の姿であった。
自分という頼りないどうにもならない存在を、認めてくれる人間がいる。何も出来ない人間であるのに、何かになると信じてくれる友人がいた。信じてくれる人が居る以上、きっとこのまま進めば何かになると思えた。そうした多くの人の気持ちを感じて、ここまで来れたと思う。
もちろん期待に応えられたわけでは無いが、自分らしく生きろと励まされる声を聞きながら生きて来れたので、勇気が湧いた。空耳かもしれないし、勘違いもあるかもしれないが、ひとりでここまで来たわけでは無いと言うことは、よく分かっている。
友達を作れるかが年寄の大事だ。死ぬその時まで新しい友達を作れる人間にならなければなならない。新しい友達が作れるためには、平たい人間で無ければならない。当たり前の親しめるおもしろい人でなければならない。怖い人間が最悪だ。死ぬときにさえ、冗談がうまく言えるようなおもしろい人でなければだめだ。
そういうことはどれほどの絵を描けるのかと言うこととは別な事ではあるが、私という人間が友人に相応しくあるためには、ちゃんとした絵を描かねばだめだと思っている。ちゃんとした絵は難しいけど、せめて人間としておかしくない絵は描かなければと思う。
すぐに絵のことを考えてしまうところがだめなところかもしれない。いつも自分のことばかりのだめ人間である。「ダメだっていいジャン」が座右の銘である。絵を描く私と言うことが生きる目標であるのだから、仕方のないことかもしれない。
友達を増やす方法があるとすれば、同じだと言うことでは無いか。へりくだりもしない。えばりもしない。いっしょになってやれることである。長年やってきたことで、年寄の方が知っていることは多いので、つい指導的になる。これが良くない。
自分が知っていることを、どれだけ同じ位置で伝えることが出来るかである。自分がこれだと思っていることは、あくまで参考意見に過ぎない。大事なことは自分も一緒になって、さらに良い方法を考えると言うことだろう。その考える方法が、伝わることが大事なことにになる。自分が知った結論を伝えることなど、余り意味が無い。
石垣島田んぼの会に参加した人の多くは移住者である。そして農業に関心がある。これだけで基礎的条件が同じ傾向の人間であることが分かる。あしがら農の会の空気にかなり近い。みんな良い友人になれそうな人達だ。良い関係を作って行きたいものだ。