動禅体操と長寿法

   



 一番でなければだめなんですか。2番ではいけないのですか。国会で蓮舫議員が叫んでいたことが忘れられない。もう2番どころか、周回遅れの分野すらあれこれ出てきている。そうした現状を受け入れて、良いところはどんな所か考えた方がいい。

 遅れ始めた日本だが、寿命はまだまだ長い方だし、さらに延びてもいる。寿命が長いという事はあれこれあるとしても、総合点ではなかなか良い暮らしぶりの国という事になる。これは日本人の農に基づく暮らしの方角が正しかった証である。その遺産で長生きなのだ。

 女性は90歳を越え、男性は85歳を越えると予測されている。私も平均的に考えてみてもあと13年は生きるという事になる。平均余命で言えば、90歳に近づいている。上手くいけば、100歳も夢ではない。そこまで絵を描いて居たいと決めている。

 日本人が比較的長生きな原因は、食事の内容と運動だろう。食べ過ぎず、身体を動かすことを良しとする文化ということになるのだろう。腹八分。流水は腐らず。日本人に染み付いた百姓の教えが長生きに繋がっていると言える。イネは足音で育つというくらい骨惜しみ無い働きの生き方。

 石垣島での暮らしではエネルギー消費量は2000カロリーぐらいである。小田原の暮らしでは2200カロリーぐらいだ。食事も2000カロリー以下にならないと帳尻が合わない。帳尻があった暮らしの結果が体重の増減が起きないという事だと思っている。

 測定マニアとしては体重の増減と、フィットビットの数値を見ては、変化の原因を考えている。最近は暑くて汗をかく。水分摂取が多くなる。その結果、カロリー消費は増えるようだ。汗をかいたり、水分の濾過、排出。こういうことにカロリーが使われるようだ。

 石垣島では絵ばかり描いていたので、どうしても意識した運動が必要だった。今度田んぼを始めれば、身体を動かすようになるから、悪くはないと考えている。一日一度は汗を流すようなことが必要である。サウナにも行けないから、田んぼ仕事は悪くない。

 田んぼ回りの草刈りももう一度しておこうかと思う。回りがきれいになれば、田んぼに居ることが楽しくなる。小田原の倍の速度で雑草が生えてくる。4日には種籾の播種だが、イネも早く成長すると言う話だ。三週間の苗床になるか。四週間の苗床になるか。興味深いものがある。

 長生きをするためには朝の動禅体操は欠かせない。すこしづつ変化をしている。できるだけゆっくり動くことにしている。スワイショウもゆっくり大きく動くようにしている。筋肉体操では無く、呼吸と重心移動の安定を心掛けている。

 新しくやってみているのは股関節と肩の関節の体操を取り入れた。右股関節が徐々にすり減ってきているらしい。これが一年でも長持ちするための運動である。まだ、こうすれば良いと説明できる所まで洗練されていない。関節を強化するためにどうすれば良いかを探している。

 痛くなりそうだから、動かさないと言うことでは無く、痛いけれど動かすことで痛くならないで動かせる方法を探っている。股関節、肩関節を動かして固まるような事が無いようにしている。禅的体操の動きを参考にしている。

 疲れた今日はおっくうだから体操を止めておこうと言うことは考えない。やる気の不足した日こそ頑張ってやる。身体が疲れ気味だったものがかえってしゃっきりする。疲れたから休むでは無く、疲れたからこそ体操をすると言うことだ。

 禅的体操は五つの基本動作で出来ている。このうち1,立禅は太極拳の中にもあり、以前からやっている。立禅では自分の理想とする呼吸を繰り返すようにしている。逆腹式と言われる呼吸、息を吐き出すときお腹を膨らませて行く。呼気ではお腹から吸い込むような気持ちだ。

 2,放下体操も取り入れてみたが、これは体操と言うより、仰臥禅と考えればいい。宇宙との一体感のようなものを、全身で受け止める感がある。仰向けに寝て、足の裏を併せて開く、手は浮かせて開く。宇宙のすべてを引き受けるような気持ち。何物からも逃げないで、受け入れるという気持ちになる。

 難しいがすこしづつ試みているのが、3,立ち魚運動。これは体幹体操を立ち魚に変えてみた。両手を頭の上で組む。片足を前に出し10センチ上げて立つ。そして身体の軸をゆらゆら魚のようにうねらす。これが難しい。出来ないなりにやってみている。出来ないと思った動きでも大抵は一年続けていると出来るようになる。

 そして4,5の体操から、股関節、肩関節に関わる体操を抜き出して、身体調整としてやっている。新しい体操を入れて上にゆっくりやるので、下手をすると一時間になる。一時間は越えないぐらいの方が良いようだ。

 股関節運動の中に、壁の前に寝て、脚は壁により掛けて、手は真上に挙げているものがある。手足を上げて、あれこれ動かす。これは案外に長くやっていると辛いものだ。心臓が、血液を足先、手先に戻すことで負荷が掛かる。これも3分ぐらいから徐々に延ばしている。

 全体では55分くらいで終わる。どの動きも目を閉じてやる。時々眼を開けて確認はするが、眼は閉じたままで動くようにしている。そのほうが気持ちの統一が出来るようだ。本来であれば、座禅のように半眼で動くと言うことが良い。半眼というのは眼を開けているのだが、見ていないという状態である。

 半眼が難しいので、目を閉じている。半眼を体得したら、目は閉じないでも良いのだろう。何も考えずにすべての動きを55分ゆっくりと進めて行く。繰り返していると、不思議と無念になっている。これを朝座禅修行のつもりで動禅として行っている。座禅は難しいが、動禅は動きに気持ちが集中できるので俗物でも無念無想になれる気がしている。

 いつまで出来るのかと思っている。動禅体操が出来ている間は動けると言うことだ。呼吸も十分出来ると言うことである。健全な呼吸は努力すれば可能だ。呼吸こそ長寿への道ではないかと思っている。動禅体操を終えると、安堵感に包まれる。安寧というのかもしれない。安心立命である。

 動禅体操が毎朝出来る間は田んぼも続けられると思う。自分の身体の検査である。一通り動きを終わると、だいたいの場合は身体が整えられる。動く準備が出来る。絵を描く気持ちも整う。コロナの御陰で、良いものが身についた。

 ただし、動禅体操が本当に長寿法なのかどうかは後二八年待って貰わなければならない。100歳まで生きたときにはそれが証明できたことになる。今のところ、良さそうだというにすぎない。

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