次の時代の職業

   

 
 新しい溜め池から、のぼたん農園を見ている。
 百姓とは良く出来た職業名だ。農業を中心に生きる暮らしは、百面相のような多様な能力が無ければ成り立たないと言うことだろう。最近農業は6次産業だというような不思議な行政用語が使われている。百姓という言葉に競べて、言葉に力が無い。

 要するにこれからの時代はやれることは何でもやって生きて行くのが良い。と言うことなのだろう。半農半Xという言葉も一時使われたが、これも感心しない言葉だった。半分農家で後は他のことをするということなのだろうが、Xでは中途半端な感じで力不足に感じた。
 
 数字で分類するような言葉の中でも六などと言うのでは捉えどころがなさ過ぎる。仕事を分類できないのが百姓だ。百姓は自然科学者である。百姓は気象予報士である。百姓は機械整備士である。百姓は祈祷師である。つまり百姓は人間である。

 百姓は大工も杜氏も土木業も水利業も井戸掘りも、道具も作れば、機織りもする。季節に応じてあらゆる仕事をこなす。それこそ何でもやるのが百姓で、生活のすべてを自分の手でこなす人のことなのだろう。だからあらゆる仕事をこなすという意味で百なのだろう。Xや6よりも百がいい。

 生活者という意味には、働くものという意味がある。本来の人間が生きると言うことはすべてと言うことだ。自分で何でも出来て生きて行けると言うことは、ある意味どれか一つに特化していないということかも知れない。専門が無いと言うことでもある。

 これからの時代そういう融通無碍に生きる時代が戻ってくる。それが生きる面白さだからだ。人間は自由に働く生き物だ。強制された労働や義務化された労働から、自由な労働に変わって行く。その方が生きる面白さがあるからだ。

 もうすぐ来る次の時代は専門家に成ればなるほど、無用な職業になる可能性が高い。どんな職業がロボットやコンピュターがやれないかなどよく分からない。人間はロボットやITの隙間の仕事に割り込むようなことかも知れない。もうその時には、働いていることを仕事とは呼ばないのかも知れない。

 既得権益の社会では「言われた通り」に動く人が出世する構図になる。政界や学界はもちろん、企業の中にもこうした忖度がびこっているのだろう。自民党など年功序列と議員相続だ。多くの人が自分の意見を強く持たないようにしている気配がある。

 日本に新産業が現われないことの原因はここに在る。立ち回りの術に秀でた人のほうが出世しやすくなっている。学術会議の任命拒否などその好例である。それが、日本企業の苦境を招いた原因になっている。イエスマンが集まる組織は、政党でも企業でもいずれ衰退する。

 言われた通りにしているだけが一番尊重されているような、ご無理ごもっともな社会では新しい仕事が現われてこない。それが日本が下り坂に入ったと言うことだったのだろう。忖度社会は忖度されるべき、上級人間と見えない形で支配されている下級人間に階層化される。

 高度成長期を体験した人間として、現在は明らかに社会が変容したと思う。羊化したような社会に感じる。羊を率いる鵺がいる。鵺は結局の所資本なのだろう。資本に人間が支配されてしまったのだろう。言葉を換えれば、拝金主義の時代。

 この時代の行き詰まりは、自由に生きると言うことで抜け出すことが出来る。お金に縛られない人間は鵺に支配されない。自由に生きるためには百姓になることだ。百姓で生きていける。人間は一日二時間の肉体労働で、食料は確保できる。

 このことだけは伝えたいと思う。私の一生はその証明のようなものだ。自由に生きるためには百姓でなければならない。科学者であり、肉体労働者であり、哲学者でなければ、百姓にはなれない。生きる為の技術者でなければ、百姓ではない。

 石垣島でのぼたん農園を始めた。繰返し跳ね返されている。それが百姓を育ててくれる。農業者という目で見る石垣島の自然環境がまだ把握できない。1年2年で分かるはずもない。科学的に自然を見ると言うことは実験を繰り返すと言うことになる。

 今までの自給生活で確立したものは、百姓仕事の実験の仕方だと思う。もし石垣島で田んぼを行うとすれば、どうすれば良いかという構想力のことだろう。小田原で行ったことで役に立つのは、考え方にすぎない。同じことをやったところで、上手く行くはずもない。

 結果は石垣島で稲作百姓の目標である畝取りである。化学量や農薬を使わないで、一反、1000㎡で一俵、600キロのお米がとれたときである。5年かかると考えている。今1年目が終わり、2年目に入る。やっと状況が把握されてきたぐらいだ。

 1年目にやっと道具がそろった。農作業小屋が出来たところだ。できる限り手作業でやる農業である。そうでなければ次の時代に役立つ農業ではないからだ。ここではお金にはしない農業を行う。それぞれが自分が生きるための農業を身につける場にしたい。

 それが次の時代を生きるためには役立つと思うからだ。のぼたん農園はあと4年間農場の整備にかかる。形が出来上がれば自給自足で生きる最も合理的な形が、誰の目にも見えることになる。それが目標である。コロナが私にやれと促したものの気がする。

 人間は本来おもしろいことで生きたいものだ。いやいや生きるのでは辛い。なかなか好きなことで生きると言うことは困難なことだった。しかし、科学技術の加速度的な進歩で、人間の生き方は変わる。コンピュター頭脳とロボット労働が人間が人間らしく生きるても良いよと、解放してくれる。

 あと、30年くらいかかるだろうか。人間が今その狭間にいる。コロナとプーチンはその膿である。時代が生み出した膿である。武力競争が人間を滅ぼしてしまうのか、気候変動が人間を滅ぼすのか、拝金主義が人間を悪魔にするのか。時代は危機にある。

 しかし、この危機を人間は乗り切ることが出来ると信じている。もっとひどい状況になるのかも知れないが、必ず人間は次の時代を希望のある時代に出来る。その可能性は百姓にある。田んぼを作る百姓である。自分一人の力で生き抜くことの出来る百姓である。

 そこから人間は再生する。かなり苦しい時代が続くだろうが、考えが変わりさえすれば、むしろ未来は明るい。人間には拝金主義を捨てることは出来る。人間の生きる面白さを知れば、人間の未来には希望がある。そのためにのぼたん農園の形を残したい。

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