石垣島に越したのは2018年11月

   


 のぼたん農園の準備中の麦畑。大豆と麦で輪作して行ければと考えている。もらってきたバガス(サトウキビの絞りかす)を入れた。2年間積み上げてあったものだそうだ。意外に発酵はしていなかった。良さそうなものだが、使ってみなければまだ分からない。

 石垣島に来て4年と1ヶ月が過ぎた。なんとなく石垣島に自分が住んでいる気持ちになったようだ。小田原から石垣に帰る。家に戻る気持ちでいる。小田原には出掛けてゆく。小田原で目が覚めると、石垣の家で目が覚めたような、そんな気持ちになるときが出てきた。身体が石垣になじんできた。

 この4年間の内の3年がコロナ生活だったのだから、まったく想定外なことが起きたものだ。と書きながらも、こんな危うさを感じて石垣に越した気もする。今やコロナ前の最初の一年の消費的な楽しかった石垣暮らしが懐かしくなる。最近は、夜に出歩くことが全くなくなったので、6時半に寝てしまう。コロナの石垣島での蔓延で、絵とのぼたん農園だけの生産者的な暮らしに自分を導いたような結果である。

 結局コロナで三線も止めることになった。三線はみんなでやれないのではおもしろくもない。赤松さん、木村さん、ミホさんなどの専門家レベルの人達に混ぜて貰えたので、楽しかったのだ。笹村さんの唄が心に響いたなどと言われて、そんなわけが無いと思いながらも、内心調子に乗っていたのだ。

 石垣に来たらもっともっと三線をやると思っていたのに、トゥーラバーマ教室もなくなった。これでは三線は続かない。石垣島に来たら、絵だけ描いているのだろうと思っていたにもかかわらず、干川さんとの出会いから、のぼたん農園の冒険を始めることになった。想定外はコロナから色々に波及した。

 コロナがなければ、のぼたん農園はやらなかったことかも知れない。時代の転換期というのは、こういうものなのかも知れない。石垣島も小田原もコロナの感染は変わらない。人混みにでることが出来なくなった分、野外での田んぼの活動が必要になった気がしている。のぼたん農園の御陰で、コロナ生活にもかかわらず多くの人と出会えることになった。

 コロナがなければ、コンサートを聴きに言ったり、食べ歩きをしたり、もう少し違った暮らしになっていたはずだ。石垣にある様々なおもしろい、観光客的な受け身の暮らしを味わっていたことだろう。一時間かからないで行ける台湾にも頻繁に行く予定だったのが、行けなくなって3年と言うことになる。これは一番残念なことだ。来年の一月には久しぶりに行くつもりだ。

 絵を集中して描くことになった。車で絵を描きに行くことはコロナ蔓延期でも問題が無かった。石垣島中をくまなく絵を描いて回った。絵を描く眼にも石垣の色が染み込んできた。そしていよいよ田んぼを始めてからは、毎日弁当を持って田んぼに行くので、田んぼがアトリエのようになった。

 その御陰で、つまりコロナの御陰で、絵とのぼたん農園の冒険に集中することになった。おかしなことだが、そう考えればコロナも有り難いことである。14世紀のペストがルネッサンスを生んだとも言えるのだから、21世紀のコロナが新しい人間の暮らし方のきっかけになると言うことは、在りそうなことだ。中国のかたくなな習政権すらコロナには勝てない。

 コロナは終焉したような言われ方をしているが、死者数から見れば実は今が第三の山場である。まだまだ続くと考えざる得ないのだろう。コロナの蔓延は収まるどころではないのだ。みんなが不安な状態に疲れて、どうとでも成れという心境なのだ。経済を考えれば、これ以外無いというのが世界の選択になった。私は台湾に行く以上5回目のワクチンは接種する。

 コロナが導く次の時代があるとすれば、発展主義、能力主義が終焉を迎えると言うことでは無いだろうか。誰でもが自分らしい小さな暮らしを求めて生きる、地味なその人らしい暮らしの時代である。拡大主義から、調和主義の時代へ変わって行く。人間が賢いものであるなら、そうなるに違いない。そう信じたい。

 調和主義と言うのは言葉が思いつかず、一応使ってみたが、現在の社会に存在する科学的知見を、どのように使うかの法に力点が置かれる時代を想像している。新しい農業の方法を探求するのではなく、それぞれの場面で自分にあった農業を探求してゆく。生産物よりも働くこと自体に喜びを感じて行くのではなかろうか。

 社会が発展を求めるのではなく、調和を求める時代である。違いを違いとして受け入れて、競争しない社会である。能力の高い人は能力を生かしてその人なりの探求をする。そうであるとしても、その探求は評価をされても、弱者を押しつぶすような物にはならない。

 弱者は弱者なりのよい暮らしが可能な社会である。弱者を社会が支えることが社会のためになると言うことが、すべての人に受け入れられる社会である。当然のことだが、能力の高い強者が権力を用いて、弱者を従わせる。時には弱い国を戦争で従わせる。

 こうした非人道的な行為を行うこと自体が無駄になる社会である。そんな社会を想像するだけで、わくわくする期待するものがある。人間は人間らしく生きることが出来れば、もうそれだけで十分なものだ。何故人を圧倒して自己存在を確認しようとするのだろうか。

 人より能力がすぐていると言うことは社会から尊重される。しかし、その尊重は劣る人も、同じく尊重されることでなければ、何にもならないことになる。高い能力の人はその成果が大きく社会に還元されることで、感謝されるものであるが、能力の低い人を否定するような物では意味をなさない。

 経済力が人間の生き方に最小限しか、影響しない仕組みが作られる。努力する誰もが、その努力自体が評価されることになる。能力で比較され、選別がされない社会である。それぞれの能力を十分に生かし、伸ばすこと自体を喜びに出来る社会である。

 コロナ後の世界が始まりつつある。ルネッサンスが始まったように、次の時代を希望のある時代にすることが、今の時代に生きるすべての人に課せられた役割ではなかろうか。拝金主義をもう捨てなければ成らないとコロナが教えていると考えた方が良い。

 のぼたん農園を始めて一年になる。まだやっと形と道具がそろって来ただけだ。実際の栽培はこれからと言うことになる。来年はのぼたん農法の確立に頑張ると言うことになりそうだ。新しい土地に合う農法は必ずある。石垣島の江戸時代の稲作法に学ばなければならない。

 同時に石垣の暮らしの中で整理して行くべきものもある。石垣島に来た最大の目標は、絵を描くことである。それ以外のことはそのために役立つことだけを行う。生きていればやらなければやらないことはある。余分なことを切り捨てたい。

 絵以外のことを切り捨てるために石垣島に来たと言うことを思い出さなければならない。のぼたん農園を始めたことが、絵を描く為だと言うことを考える。日々の一枚の水彩画がそのことを示していなければならない。日々新たな気持ちで絵を描こう。

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