八段錦、眼を閉じて爪先立ち姿勢を6分

   



 続けて朝の動禅のことを書いてみる。自己確認である。参考になるようなことでは無いかもしれない。そんなことを書くなと言われそうだが、70歳になって始めた人間が、どんな状態で続けているかと言うことの参考ぐらいには成るかもしれない。

 八段錦の最後の8段は爪先立ちである。慢性病に効果があると能書きがある。足の指辺りにあるツボの刺激だと思う。一般にはどのくらい爪先立ちをしているのかは知らないのだが、今私の場合は100数える間を一回として、三回である。一回2分ぐらいだろうから、合計6分間目をつぶっての爪先立ちだ。さらに目標としては長くしても良いかもしれない。

 目つぶり爪先立ちは気持ちが整う、8段錦の最後をしめるものだ。そのうち、200ぐらいまで伸ばせるかも知れない。何が良いかというと、意識というものの存りどころというか、置き所が確認できる。よほど集中して気持ちを集めなければふらついてしまう。

 意識が脳の中にある間は、ぐらぐらして続かない。考え事などしていれば、たちまちに揺らいで倒れてしまう。身体の中心に感覚を集めてゆくと、揺れが少なくなる。気持ちに乱れが無ければ、長く爪先立ちが続けられる。時には気持ちが集中して、微動だにしないことにも成る。今のところ、10日に一回ぐらいのものだ。

 足の指だけで立つ姿勢ということで、足指マッサージのような効果が生まれる。足の指の付け根はすべての身体の部位に通じている。中国伝統医学ではそういうことが言われている。その足の指の付け根だけで長時間爪先立ちをすると、身体の中の流れが活性化することになる。そして慢性病の効果。

 初めは爪先立ちをして目をつぶればそれだけでふらつく。エベレストの頂上にいるような気持ちでやっているので、心理的にはかなり怖いものだ。ふらつかないで続ける為には、意識を自分の中に集中してゆく置き所が重要になる。身体は肩の力を抜き、私の場合は身体の中心付近に意識を集中する。

 身体の中心辺りのどこが安定をするかは人によって異なるのかも知れない。自分で確かめながら徐々に探るほか無い。良く丹田と言われるが,丹田は具体的な場所ではないので、そんなところかも知れない。ともかく安定して爪先立ちが出来れば、場所は臍でも肛門でも良いことだ。人によっては立っている足の指当たりなのかも知れない。

 私のやることは乞食禅だから、結果次第なのだ。摩訶不思議なことは排除する。1分できるより、2分できる方が気持ちの集中が深くなったと考える。よほど意識の置き所が安定しなければ、目をつぶる爪先立ちを1分でも出来ないだろう。2分できるようになれば、意識というものが、どことなく分かるようになる。

 足の袋はぎの筋肉は別段鍛えては無いが、この程度なら大丈夫だろう。それほど筋肉を使って立つものでもない。体操の選手が制止三秒とか言うが、あの制止を1分行うというようなものだ。簡単な爪先立ちの姿勢だから、三秒なら誰にでも出来る。

 ただこれが1分となると意識を上手く操作しなければ、ふらついてしまう。意識を脳から別の所に置く訓練である。脳で考え事をしていれば、眼を閉じた爪先立ちは出来ない。目を使いバランスをとれば出来るわけだが、目を使わないところが味噌だ。意識を身体の中心に置くことを毎日繰り返している内に、意識を脳以外に集中する事ができるようになる。

 脳では無い場所への意識集中の訓練の程度を計るためには、爪先立ちの揺れと安定時間が材料になる。つまり、脳では無い場所では考えることは出来ない。人間肛門では考えることは出来ない。臍はお茶を沸かすぐらいしか出来ない。頭脳は考えるぐらいしか出来ない。

 本当の静止姿勢は座禅でも立禅でもかまわない。爪先立ちで集中が生まれてくると、立禅でも同じ心境で立っていられるようになる。しかし、まだまだ未熟なために十分なところに行けない。すぐ雑念がわいてくる。それは雑念がわいても、立禅では立っていられるからだ。雑念がわいても転ばないから良くない。

 これが座禅となるとさらに難しいものになる。1時間も無念無想でいるなど、普通の人間には出来ない。私は普通以下だから雑念だらけだった。それが爪先立ちから訓練を積めば、10年ぐらいすれば可能になるかも知れない。人間は努力すれば、変わることが出来る。

 私のような者でも出来る禅は背伸び禅の姿勢かも知れない。何でも背伸びする人間としてはそんなものかも知れない。眼を閉じた爪先立ちには、もう一つの要素がある。それは呼吸である。お腹から短く呼吸を続ける。そうしなければ続かないのだ。体幹を意識して、体幹で立つ。

 八段錦はすべえて呼吸法の動きである。一段ごとに、呼吸を高める違った動きが伴っている。八段錦を日々行えば複式呼吸が深くなる。心肺機能が鍛錬される。例えば六段錦には前段で手を片手ずつ三回挙げる動きがある。この時に、左手をまず上げるのだが、口を閉じて息を吸う。続けて右手を上げながら口を開いて息をさらに吸う。

 そうするともう吸えなかった息を吸うことが出来る。次に呼気である。左手を上げながら口を閉じて息を吐く、吐ききったならば今度は右手を上げて、さらに息を吐く。もう息を吐ききったと思っても口を開けて強く吐けばいくらか吐けるものだ。

 こんなことは本来の八段錦では行わないのだろう。できるだけ口は閉じて鼻からの呼吸と言われている。何故こんなことをするかと言えば、呼吸の力を鍛えるためである。呼吸は肺がしているように思うが、そうではない、呼吸筋肉が行っている。肺は酸素の採り入れなどの機能をつかさどるだけだ。

 肺は心臓のように筋肉を伴う機関では無い。呼吸をしているのは呼吸のための筋肉である以上使わなければ衰える。そして、何歳になったとしても筋肉は鍛えれば強くなる。呼吸は筋肉体操で強く出来るのだ。私のように気の弱いものにも、心臓を強くする体操があれば良いのだが、残念ながない。

 人間は無意識に呼吸をしているようだが、心臓の血液循環とは異なり、呼吸は意識によっても行える。極端に言えば、呼吸をしないという意識して、死に至ることまで訓練によっては出来るはずである。呼吸は鍛錬が必要なものなのだ。

 呼吸は年齢と共に衰える。足腰の筋肉が衰えることと何ら変わりが無い。足腰が弱れば、人間の活力は一気に落ちる。足腰の筋力は運動によって鍛えられる。日ごろの生活の中に身体を動かす活動は、意識をして行ってゆく必要がある。足腰と動揺に人間は年齢と共に呼吸筋が弱まり、呼吸が浅くなる。

 呼吸を意識して深める体操が八段錦である。その意識で八段錦すべてを呼吸を高める動きに、自分流に直した。これで大分肺活量が増えた。年齢と共に衰えるはずの肺活量がいくらか増えたようだ。測定器が無いので測定は出来ていない。一度測定をしなければいけない。

 八段錦八段目の爪先立ちは眼を閉じて長く行う。呼吸と意識の置き所を探る運動である。それによって禅の心境を感じる、羅針盤になる。爪先立ち体操が8段目の最後にある所以であろう。

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