太極拳10年計画三年目

   


 太極拳は70歳の時に始めた。惚け防止には太極拳がピンポンの次に良いと言うことをテレビで見たからである。死ぬまで毎朝やるつもりで始めた。たぶんやれる内はボケないはずだ。最初の一年で何とか覚えた。覚える能力は残念ながらかなり人より劣るので、覚えることが出来るかとが不安であった。

 一年間毎朝行っている内にいつの間にか覚えていた。ボケてはいないようだ。それならと思い二年目は眼を閉じて行い、忘れるように努力をした。忘れても出来るようになる努力をした。1年かけて何とか忘れている。忘れる方は別段心配はしなかったが。

 今は忘れたので、思い出してやるようなことは無くなった。忘れたというのは無意識でも出来るようになったと言うことだ。よく間違えるが、それはまったくかまわない。間違えたことも無視できるようにやっている。歩いていてもつまずくことはある。つまずいたからといって気にすることはない。

 では、三年目は何を目標に行うかと考えてみた。迷ったが「正しい動き」を目指すことにした。太極拳というか、私の動禅は10年で目標を達するつもりでやることにした。80歳の時に境地に達する目標である。少しも変わっていないのか、いくらか人間が変わっているか。絵を見れば分かる。

 1年ごとにその年の課題を設けることにした。課題があると案外に課題を解決できる。漫然とやるより何かその年度の目標を一つを決めて、その一年はやり続けたい。三年目は正しい動きの達成を目標にした。

 1年目も、2年目も、目標を決めたときには無理かなと思える。それでもやる内に変わる。出来そうに無いことでもできている。正しい動きと言っても眼を閉じて行うので、足を上げる動きはまったく出来ない。10数えるくらい足を上げて、静止したいと思うのだがほど遠いい状態だ。

 まだ10年目にいたる残りの課題は見えてこないが、10年目には無念無想で行うと言うことが目標なのかと思う。そこにまで進むための10の課題である。一が覚えること。二が忘れること。三が正しく動くこと。

 動禅の正しい動きとはどのような動きであろうか。正しい動きを1年かけて探り当てようというものであるが、今課題としているのは、できる限りゆっくりした動きである。動きは遅いほど気持ちが籠ってゆく。正しい動きはかなりゆっくりした動きではないかと思う。普通行われている大挙拳の倍以上時間がかかる。動禅としてやるからである。

 速い動きになるとスポーツのようである。これは中国の太極拳を見て、反面教師として得た考えである。中国人はお金にならないことはやらない。まるで見世物のような感じである。舞踊な形で指導の教室で利益を上げているので、より目立つものになるのではないか。

 中国の太極拳はオリンピック種目にしようというような、方向で考えている。それとは対極的に違う。本来の太極拳は勝ち負けがあるようなものとは一番遠いところにあるものだ。人と競べないためのものだ。それぞれの人が到達すれば良いだけのことだ。正しい動きをできる限りゆっくりと行う。

 動禅は精神修養の道かと思う。日々不安の中に生きている。いかにも図々しいような私でも、日々人様に迷惑をかけていないか。不愉快な思いをさせていないかと、気持ちが不安で溢れる毎日である。楽観とはほど遠い精神状態なので楽観を目指している。

 そこで動禅を毎日行うことで、このままで生きても良いのだという楽観の確信をめざしている。その修養に通ずる正しい動きである。まずゆっくりとした気持ちが籠る動きではないかと思っている。日本の太極拳も私から見ると動きが大分速い。

 23分と楊先生は言われていたと聞いているが、今ユチューブに出ているものは20分以下だろう。中には10分で終わるようなものまである。これは中国太極拳の影響かも知れない。クラシックバレーのような太極拳である。舞いとしては美しいものかも知れないが、動きに籠るような精神世界とは違う。

 クラシックバレーの動きも確かに美しい。ある意味人間の究極の美の動きを求めているのかも知れない。しかし、能や琉球古典舞踊の中にある。動きに精神を込めるような世界観とは違う。正しい動禅の動きは能の動きから導き出したいと考えている。

 正しい動きは重心の移動にあると考えている。重心はかなり低いのだと思う。低い重心をゆっくりとぶらさず移動させる。低い重心を続けることはかなり体幹が強くならないと出来ない。少しずつ体幹を強くして、重心を下げたい。

 動禅としての正しい動きを三年目の1年間の目標にする。正しい動きを探す1年である。正しいと思う動きを目指していると、いつの間にか教えて貰ったものとは違うものになってくる。教えて貰った動きはその人の正しい動きであって、私にとっての正しい動きでは無い。

 過去にある形は確かに参考には成る。参考はあくまで参考にして、自分の正しい動きにまで、持って行きたい。8段錦についてはほぼ自分の形になってきた。太極拳はまだまだである。目を閉じて行う太極拳はあくまで課程である。いつかは半眼でやりたい。
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 半眼とは眼に視覚はあるが、見ていない状態。そこまで行けば眼を閉じないでも良い。今は閉じることで集中が深まる。眼を開いていると、視覚が動きを助けてしまう。視覚に頼らない動きの方が良い。目に頼らなくなるまでは眼は閉じて行う。

 半眼で絵を描くという事に繋がる。絵は確かに視覚で描いているものだ。しかし見ているものを写すものだとは考えていない。絵画での見るは、観るである。本質を見抜くと言うことで、表面性の奥にあるものを観なければ、絵画での見たことには成らない。

 絵画は人間の哲学の表現なのだ。作者の思想や感性に出会えるから興味深い。確かにそういう絵画は現代には滅多に無いから、絵を見る能力も育たない。描くのも一筋縄では無いが、絵画を見るのも簡単ではない。10年前の人の絵の理解はぜんぶ間違えだと謝りたいぐらいだ。

 あと8年して自分の太極拳に至っているだろうか。80歳の時にボケていないだろうか。継続だけは出来る性格なので、続いているとは思う。たぶん10年目の目標の無念無想の太極拳には至っていないことは、なんとなく想像できるのが情けない。

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