年寄りの問題点といくらかの良さ
2025/04/24

歳をとり人間は次第に衰える。そして死んで行く。その実感がある。死んだことはないので誰にもわからないことだが、だんだん死ぬと言うことが近くなり、よそ事ではなくなる。死は恐ろしいことのわけだが、だんだん惚けてきてそれほどではなくなるのが普通なのだろう。
身体的な衰えもあれば、精神的衰えもある。しばらく前には出来たことが、いつのまにか出来なくなっている。性格も悪くなる。余裕がなくなり、せっかちになる。怒りっぽくなり、我慢が聴かなくなる。これは人ごとではない。自分自身を考えてみて気づくことだ。
年をとり穏やかになると言うことは私にはないらしい。角が取れるどころか何にでも腹を立てている。自分が出来なくなるので、イライラすると言うことだろう。年をとることはあまり感心できることではないようだ。気をつけて、あまり嫌われないようにしたいと考えているが、年寄りだから当てにはならない。
何故、慌てふためくのかと思う。何でも同時に片付けてしまおうと考える。歯磨きなどはトイレで座っている間にやる。それはまだ良いのだが、歯を磨きながら、顔を磨こうとしてしまう。トイレに入るとつい水を流してしまう。何でも焦っているのだ。
体力で落ちたのは瓶の蓋が開けられなくなったと言うことだ。昔は奥さんに蓋を開けて、と頼まれていたのだが、今はそんな頼みはされなくなった。瓶の蓋開けのすごい道具を買ってきて使っている。気の毒で頼めないことになったのだろう。
時に指がしびれたり、キーボードフィンガーになったりで、実に頼りない手になったものだ。最近、老禅体操に違った、動禅体操に指体操を加えた。力が落ちるだけではなく、自由に動かなくなれば、絵を描くことに問題が生じるかもしれない。一年でも長く自由に動かしたい。
まあ、そうした肉体的なものはまだいい。大事なことを忘れてしまったり、間違ってしまったりが目立つようになった。覚えていない。忘れてしまうと言うのは、年寄りの代表的な衰えなのだろう。老人性の痴呆の始まりのようなもので、脳の萎縮が原因しているに違いない。
うっかりが多くなる。やろうと思っていたことを出かかけてからわからなくなる。ああそうだったかというのが今の状態なのだが、そのうちわからないのでそのまま帰ってくると言うことになるのだろう。残念なことだが、ともかく一日でも長く脳の萎縮を先に延ばさなければならない。
今こうして文章を書いているのだって、脳トレである。後、最低でも6年半はのぼたん農園の完成を目指して、あれこれ片付けなければならないことがある。今日だって早く言って、4番溜め池の改修工事を進めたいのだ。惚けているわけには行かないのだ。
悪いことを数えれば切りがないほどあるが、良いこともあるかと言えば、絵が少しだけ見えてきている。他人の絵を見ていると、大抵の人は絵が悪くなって行く。例えば文化勲章を貰ったような日本の代表的な画家の絵を見ても、大体の人が若いときの方が魅力がある。
歳をとりよくなる人は例外的にいるだけだ。そういう人は大体に天才と言えるような人で、中川一政氏がその代表である。普通は若いときのレベルを維持できればたいしたものなのだ。それはすごい画家でさえそうなのであって、普通の画家であればまずもって衰えて行く。
若いときの絵を維持できていれば、それはすごい努力家であることは確かだ。努力して頑張っているので、絵は成長はしない。絵はそういうものではないからだ。頑張るの知識とか、技術とかであって、絵の本質とは関係のないことなのだ。技術や知識を捨てるところに絵はある。ただ捨て方が問題なのだが。
絵の本質が良くなる為には、描く人の人間が良くなると言うことに尽きる。大抵の人間は歳をとり人間が衰弱するわけだから、人間的な魅力も減じて行く。だから、絵がつまらなくなる。惚けて良くなると言うことは確かにある。その人のこざかしさが消えるからだ。
私の場合は脳が萎縮した絵など話にならない。絵を描く何かは今の所脳萎縮はない。自分の絵を見ることが出来る。良くなっているところもわかるし、相変わらずダメなところもわかる。まだ今の方角で進めば良いと言うことはわかっている。
少しずつであるが、自分の絵に近づいている気がする。年数が必要だったと言うことがわかる。意識して絵を描き始めたのは小学校4年生の時に、根津壮一先生にお会いしてからだ。10歳の時になる。あれから絵に関して言えば、描き続けてきたと言える。
その65年の努力は確かに絵に出ている。たいした絵ではないのかもしれないが、自分の絵に向かって進んでいることがわかる。20代に絵を描いていたときよりも、あれから50年描いてきた今の方が、50年間の絵との向かい合い方が間違っていなかったという気がしている。
65年やってこなければ、今の自分の絵はないと言うことがわかる。この点では絵の描き方を間違えなくて良かったと思っている。今のままに、後25年さらなる老人画家に向けて頑張ってみたいと考えている。そのときには、今よりはましな自分らしい絵が描けているような気がしている。
歳をとり絵というものに、自分の生きてきた時間が集約されてきたと言うことになる。さらなる絵に向かい集中して行くことだと思っている。のぼたん農園をやることも、絵を深めて、集中することだと思っている。この繋がりを歳をとり身体がわかってきた。
結局絵を描くと言うことは、身体的なものにならない限り深まらない。不思議なものなのだ。頭で描くのは誰もがまずいと思うだろう。感覚で描くというのも実は違う。感じとしては身体が描くとしか言い様がない。日常変えになるという感じだろう。
これが歳をとらなければ見えてこない人間の面白さだ。65年の年限をかけて、初めて人間の面白さが見え始めた。この面白さが絵にまで現われれば、すごいものだと思える。そんな見る人が元気なってしまうような絵が描ける可能性が出てきたかもしれない。
「絵を描くときは田んぼをやるときのように、田んぼをやるときには絵を描くときのように」のぼたん農園の完成を目指すと言うことは、自分の完成を目指すと言うことだろう。毎日積み重ねない限り、何も進まない。65年積み重ねてきたものが、のぼたん農園であり、私の絵なのだと思う。