身体で覚えたものが重要だ

   



 義務教育に作務を加えてもらいたい。人間が必要なことを身につけるためには頭で覚えることより、身体で覚えたことの方が重要だと考えるからだ。自分の体験から体で覚える重要性を考えている。身体で覚えたことは人間の成長にかならず繋がる。

 現代教育は身体的訓練が教育から抜け落ちている。このことが社会に悪い影響を与えている。頭でだけ考える、頭が良いと言われる人達が、功利的で競争主義の社会を作ってしまった。身体で生きている人間は、自分の則を身体が知っている。

 身体的訓練とはいわば九九を覚えるのと似ている。九九は繰り返している内にいつでも出てくるようになる。一度覚えてしまえば、いつでも必要なときに使うことが出来る。身体で覚えることは歩き方とか、座り方と言うような所作から始まり、生活に必要なことすべてである。

 掃除が作務の代表のようなものだが、現代の学校教育で掃除の指導を徹底して行っているだろうか。日本の教育の長所は掃除を教育に取り込んだところにある。掃除の教育的意味を伝えられる教師がどれほどいるだろうか。曹洞宗では掃除を読経や座禅と同じ行としてとらえている。

 昔は家庭に於いて農作業の手伝いが行われていた。だから、学校教育に於いて農作業の作務が必要がなかった。先祖伝来の農地で、親が子供に農業の技術を伝えていた。環境と調和して、土壌を育てることが、生きて行く基本だと伝えられた。

 改めて、教育の中に農作業の時間を設けなくても、大多数の生徒が家に帰れば一人前の労働者として、仕事があった。そうしなければ暮らして行けない生活だったからだ。家の仕事の農作業を通して、身体が何が大事かを覚え込んだ。

 今では児童労働は禁止されて、子供を労働者として働かせれば、児童虐待とか言われるのではないだろうか。世界には子供の強制労働のような、ひどい虐待もあるから、一概には言えないのだろうが、子供が働くことで身につけるものは沢山ある。教育として作務を復活させなければ、日本人が育つことがなくなる。

 たぶん身体ですべてを身につけたような人は、政府にとっては扱いにくい人間になるのだろう。頭でしか理解しないような人は政府の扱いやすい人達なのだ。善悪の判断を身体で行う人間は、財力や権力は騙しにくい存在だろう。

 農作業は人間が育つためにとても良い。子供にもやれる相応しい仕事が沢山ある。両親が大変な仕事をこなしているのを見ながら、共に働くと言うことに意味がある。自分も少しでも役立つと言うことを子供自身が学ぶ必要がある。農作業にはそういう子供向きの仕事がいくらでもある。

 家でやらされる子供労働者としての仕事が人間を育てていた。江戸時代であれば、85%くらいの家が農家であった。農家でない例えば武士であっても、その半分以上が食糧の自給はしていた。それは商家でも同じことである。大半の人が農業に関わった。いずれにしても子供にも仕事はあった。

 今では子供の仕事は勉強に限定されることになったわけだ。頭に知識を大量に詰め込まないと、社会で生きてゆける義務とされる教育の量がこなせない。小学生が無意味な英語までやらされるのだからひどいものだ。これが甚だ問題なのだ。知育と呼ばれる部分が肥大している。その分だけ身体で覚え込まなければ身につかないようなことが、欠落した。学校では作務を取り入れる余裕がない。

 日本では家庭で子供が役割を持って働くと言うことがなくなって、3世代ほどが続いた。73歳の私はまだ子供の頃畑仕事をさせられた。人間力に必要な身体的な訓練で身につけるべきものが、弱まっているにちがいない。理屈抜きの身体運動の繰返しによって身についてくる能力は、脳の力量まで上げる。

 日本が開発力を衰退させ、新産業の創出が出来なくなった理由は作務教育が失われたからだ。掃除をしている時間より、補修授業の方が効果が上がると考える先生が多いのではないだろうか。それが小学生にまで英語を教えるという馬鹿げたことになった。

 70を過ぎて動禅を毎朝行うことにした。一通り覚えることに、1年はかかった。そして、覚えたことを行うのではなく、何も考えないで動作が出来るようになるのに、もう1年かかった。そしてそれを正しい動きで行うために1年を見ている。

 今その3年が経とうとしているが、やっと動禅が身についてきて、脳の働きまでに影響を始めた気がしている。身体が学んできたようだと思っている。身体が身につけ、自分のものにするためには少なくとも3年はかかると言うことのようだと実感をしている。

 頭で考え、ビデオでも使って行えば、1週間も勉強すれば覚えて、やれるようになるのだろう。しかし、それでは動禅にはならない。そういう入り方ではどうにもならないところがある。身体が1日ごとに体感して身につけるすべてを重ねて行く。

 こうして身についたものは、自分のものと言えるものになる。自転車に乗れるようになれば、何年乗っていないでも又自転車には乗れる。歩くのだってそうだ。どうやって歩くのかを覚えているわけではない。身体が身につけている。

 身体で覚えるとは身体のすべての感覚が連動している。鼻も使えば、眼も使う。手の感触で覚えていることもある。こうした訓練を繰り返すことでまっとうな人間になる。身体が何も覚えていない人間だけの社会に日本は成りつつある。

 身体が身につけると言うことの重要性を考える必要がある。身体を動かす労働から人間は離れている。日本では肉体労働者は減少し、海外の労働力に依存している。下り坂の国日本では、後数年で、海外から日本に働きに来て貰える時代も終わるだろう。

 その時身体的な記憶のない人間ではたぶん身体の動かし方が分からないはずだ。身体の動かし方は出来れば子供の頃に身につけることが一番である。言葉を覚えるためにはその適切な年齢がある。ものを見る眼を養うためにはやはりその適切な年齢がある。

 身体の合理的な動きを身につけるための年齢がある。それがないものには、頭から入る肉体労働はよほどの苦しい物になる。実は絵を描くというのはまさに身体的体験である。頭をどうやって切り捨てるかが重要になる。やはり、絵を描くということでも、子供の頃、身体で覚えたものは重要になってくる。

 子供の頃、自然の中で働く子供だったことを深く感謝している。あのわくわくする感触を今でも思い出す。あの感覚を身体が覚えているので、昔の記憶の絵が描けるのだと思う。私を働かせてくれた向昌院のお爺さんお婆さんの御陰である。

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