著作権の考え方
ヒメアマガエルのオタマジャクシ 日本一小さい蛙とのこと。月の溜め池に出てきた、半透明のオタマジャクシ。オオヒキガエルのオタマジャクシと思われるものも出てきている。こちらは害虫駆除のためにわざわざ持ち込まれたという毒ガエルである。
害虫駆除という名前の通りで、オオヒキガエルは石垣島希少な昆虫を食べ尽くしそうな状況だそうだ。マングースといい、ジャンボタニシにしろ、一帯誰がこんな愚かなことをしてしまうのだろう。まったく人間は下手な考えで、手に負えない。
著作権など不要だと考えている。私の絵はどのように使われようとまったくかまわない。私の絵など、使う人などいないように思われるかもしれないが、勝手に印刷物にして、販売している人もいるが、むしろ喜んでいるぐらいである。
最近、漫画を無断ウエッブに掲載して、広告収入を得ているサイトがある。漫画そのものが載せられていて問題になるものと、セリフやいくつかの絵だけ掲載する、ネタバレサイトというものもあるらしい。何がおもしろいのかと思うが、多くの人が見て、広告収入が得られると言うことらしい。
そんなものに広告を載せている人が一番悪いのではないか。広告禁止に出来ないものだろうか。どだいまともな会社であれば、そんな他人のふんどしにさらに便乗しようなどと考えるはずが無い。悪い商品やら、悪徳商法が広告されているのでは無いだろうか。拝金主義というものは情けないものだ。
そもそも拝金主義が根底で支えているのが、著作権である。著作権が無くなると、健全な文化が失われると言われている。そもそもそういう考え自体が、間違いになり始めている。経済が単純な拝金主義になれば当然の帰結だ。
芸術的な創作は自分という人間の成長のためにあるものだ。芸術は人間の豊かな精神生活のためのものだ。商売のためでは無い。まして投資の対象の商品化されてしまえば、健全な文化を支えるようなものであるはずもない。
著作権が問題にされる、創作物とは金儲けのための創作と言うことなのだろう。そもそも絵を販売して、お金を得ようというような考えがおかしい。絵に対して、お布施を払う人がいるかもしれない。あるいは投げ銭をする人がいるかもしれない。絵とお金の関係はその範囲で無ければおかしい。浮世絵は庶民が楽しみで買っていた。
ゴッホの向日葵が何億円で売れたので、これで何億円儲かった。というようなことは、創作したゴッホには何の関係も無い。芸術作品の売買で一儲けしようと言うことが歪んだ資本主義世界の表れなのだ。まして、大もうけしたいから値上がりする絵を描くというような精神であれば、拝金主義の装飾品だろう。
漫画が描きたいから漫画を描くのであって、お金になるから漫画を描くというようなことは、そもそもこの時代のおかしさである。そんな漫画はまともな作品であるはずがない。より売れるために描かれた低俗なものなのでは無いか。見ないで言うのは申し訳ないが。貸本ブームの「忍者武芸帳」白土三平著の読者であったが。
おかしい社会の中に生きているから、創作物のゆがみが見えないだけである。お金になれば何でもあり、という世界観の中で起きた著作権問題である。芸術の商品化時代である。売れるものが良い芸術品という歪んだ芸術の時代である。
そのそも芸術は人間のためのものだ。よりよく生きるために芸術がある。それは創作すると言うこと自体にあるものであり、また同時にそれを見るという行為にも伴うものである。だから、所有物にして資産にしようなどと言うこと自体が、芸術とは縁のないことだ。
それでも、作品には制作者の名前ぐらいは必要ではないかと言う意見が以前あった。名前というような注釈もいらないと思える。ゴッホだから素晴らしいというわけでは無い。絵そのものが素晴らしい。公表したものはすべての人類のものである。
そんなことを考えたのは開墾生活に入った、30代後半である。最後に生前葬個展を文春画廊でやって、その後一切個展はやらないことに決めた。自給自足で暮らせれば、あとのことはなんとでも成ると考えた。絵を売りたいという嫌らしい思いに耐えられなくなったのだ。そんなつもりで描いているのでも無いのに、何故投資家相手にこんな嫌な思いをしなくては成らないのか苦しくなった。
40年前には投資のための絵画雑誌というものが売れていたのだ。これから値上がりする有望新人特集等という馬鹿げた時代だ。ああイヤダイヤだ。その結果がどうなったかと言えば、現代の絵画の低迷である。売れたから良い絵が出現したかと言えば、絵画の時代は終わったようだ。それくらいまともな絵が存在しない時代になっている。
資本主義経済が芸術作品を商品化して、だめにしたのだ。良い芸術は資本主義からは産まれないと言うことが結論だろう。あの頃の値上がり確実な絵画は二束三文に違いない。ネットオークションを見るとそういう絵が良く出ている。お金にならないから漫画を描かないのであれば、結構では無いか。それでも描きたいという人だけが描けば良いのだ。むしろ、まともな漫画が登場するかもしれない。
発表はいくらでも出来る時代である。書いてサイトで掲載すればいい。漫画作者が本当に表現したいのであれば、自分でやればいいだけのことだ。お金がかかる映画だから出来ないと言うのであれば、クラウドファンデングでお金を集めて、制作すれば良い。
実際にそうやって生まれている映画がある。「緑の魔境」という台湾監督の作る西表炭鉱の映画はそうして作られた。私もいくらか寄付したが、その出来た映画を見てはいない。コロナで映画を見ると言うことも出来ないし、石垣島には映画館が無い。
今起きている著作権問題は時代の変わり目の問題に過ぎない。人間と芸術という大きな時代の流れを考えれば、祈りのための芸術、宗教のための芸術、権力のため芸術、商品としての芸術。様々な堕落の変遷がある。
この先考えられる芸術の在り方は、創作者自身のための芸術の時代だ。絵画で言えば、私絵画の時代だ。創作すると言うこと自体に重きが置かれる芸術。そうした創作をしている人は、すでに数限りなく存在する。たぶんその多くの人が、未だに商品絵画の時代に錯覚をさせられているのだろう。
すでにIT技術というものが、芸術表現を変えている。ウエッブの中でも商品芸術を確立しようという、馬鹿げた方式も登場しているが、技術はそのようなあがきを越えてゆくにちがいない。情報は金銭的価値を超えて広がっている。
例えば新聞社はニュースや論評を有料範囲を作り販売している。しかし、無料の論評で十分である。購入して読んだことは一度も無いが、それで何も困らない。それでは新聞社は潰れるだろうと言われている。しかし、新聞社は潰れても、健全な調査報道が無くなると言うことではない。
むしろ、新聞社は潰れないために健全な調査報道を失い始めていると言えるのではないか。商業主義から離れて、調査報道をやる人が出てくるはずである。ネットは拝金主義をも越える可能性を秘めている。それを実現できると人間を信じている。
思いだけは高く志し、継続していれば新しい時代は来る。次の時代を作り出す、無数の力の中の一人のつもりである。もう少し能力があればと思うが、次の時代を作るのは能力の如何では無く、志だと思いやれる限り続ける。