水彩画年賀状 希望者募集
ここ10年ほどは年賀状を水彩画で手描きしている。アトリエカーにはハガキサイズの紙が備えてある。白紙の紙もあるが、絵にならないで廃棄する紙をハガキサイズに切ってあるものもある。制作している合間に気分転換に、ハガキに勝手気ままに描く。できるだけやったことの無いようなことを大胆にやってみる。
描いている絵の展開に繋がることがある。作った色を試しに描いてみて色を確かめることもある。色の重なり具合など、ハガキで発見することもある。今年は溜まったものを数えてみたら、150枚以上ありそうだ。これを年賀状にするつもりだ。
時々見返してみては、又筆を入れる。そうこうしているうちに行き過ぎになり使えないものになる。適当なところで終わりにしないと、送ることの出来ないものになりそうである。なぜこんなことをしているのかと言えば、水彩画が一番自分の現状を伝えられるものだと思うからである。
自己本位と言えば言えるのだろう。本来年賀状は送り先の人の新しい年をお祝いするものだ。新しい一年が良い年であることを祈るものである。自分のことばかりである、と言うようなことは論外である。しかし、年賀状を描き始めた小学1年生以来、何かを制作すると言うことが、なんとなく習わしになっている。
制作したものを送ることが新年の挨拶という習慣で、65年間になる。これをやらないと一年がすっきりと終わらない。日本には年に一度、多くの芸術家が誕生する習慣があったのだ。これはすばらしい習慣だと思う。面倒くさいようだが、続けて来れて良かったと思っている。
高校生の時までは木版画を作っていた。大学生の時は、シルクスクリーンやエッチングをやった。フランスにいたときは絵を描いた気がする。山北に移った頃から、プリントゴッコで描いた。プリントゴッコに手描きを加えると言うことも大分やった。油絵の具を使ったプリントゴッコである。
その後手描きで水彩画を描くことになった。一番多かった年賀状は、石垣島への引っ越しの案内を兼ねた年賀状で、365枚を富士山を見ながら描いた。富士急ハイランドホテルに三日間泊まって描いた。これは良い思い出になった。
今では年賀状は表現手段の一つと言う意識である。芸術的な行為という意味もある。年賀状であれば、絵を送りつけても不審に思われない、そんな表現の唯一の機会である。何かを表現するという意味の確認である。
今年は今予定の発送枚数が120枚ぐらいに減った。年賀切手は発売と同時についつい150枚購入してしまった。減るのは寂しいことだが、来る年賀状が減ってきた。年々喪中はがきが増えてくる。寂しいことだが、歳をとったのだから仕方がない。年賀状は続けられる間は続けるつもりだ。
今年はコロナで人に会うことが難しい歳だった。同窓会も無ければ、水彩人展もなかった。農の会の自給祭もない。例年とは別な意味で、年賀状でせめてもの近況報告をしたい。一時でも水彩画を見た人が、気分転換できる、楽しみとできるような、描いた絵を送らせてもらいたいと思っている。
これも恒例のことだが、年賀状が欲しいという人がいたら、コメント欄から住所とお名前をいただきたい。公表はしません。数がある限り送らせていただく。年賀切手が余っても仕方がないので、よろしくお願いします。お会いしたことも無い人から、そういう希望があると嬉しくなる。
こんな関係が生まれるとすれば、ブログを書いていることが嬉しくなる。興味を持ってくれる人がいるということは励みになる。人間歳をとっても、不要不急ばかりではつまらない。100歳に向かって前向きになれる。
この5枚も誰に行くのか分からない。まだまだ、年賀状の絵の写真は撮るが、正月元旦に載せるつもりだ。24日頃には宛名を書いて、謹賀新年ぐらいは書いて投函したい。いつも一言書こうとこの段階では考えているのだが、なかなかそこまではできないでいる。
ともかくエールである。絵を描いているおかげで元気そのものである。その元気が伝わる絵を描いて、エールを送りたいのだ。朝ドラでは音楽を共に生きる人々のエールとしていた。地場・旬・自給ブログからは年賀状で読んでくれている人にエールを送りたい。
私の年賀状を見れば、いくらか明るい気分になれるかもしれない。コロナパンデミックは起こるべくして起きたことだ。こんな悲惨なことでも人間には必要だったのだと気付く日がかならず来る。もっと人間が良くなるための試練と思って絵を描いている。
この文章を書き終わってから一通り見てみると、使えないものが60枚ほどある。それでも残りが140枚ほどあった。60枚をもう一度描いてみる。それで新しく出来たものの中には、入れ換え戦に勝ち残る物がでてくる。絵はやればやるほど良くなることの方が多い。
絵が絵になるための境目がある。それを越えるための方法はその絵によって違う。60枚の内何枚が絵になるのか。興味深い。