第32回 水彩画 日曜展示

   

第32回 水彩画 日曜展示







99「中井町篠窪の柿の木・雨」
10号f インドの水彩紙 
2020.12






100「笛吹市・花鳥山の大杉」
6号p インドの水彩紙
2020、12








101「石垣島名蔵の一番奥の田んぼ」
中判全紙 ファブリアーノクラシコ
2020.12

 意識したわけではないが、全く違う場所の木の絵である。その場所で見えたものに、その時々に迫ろうとした。違っていることと、同じことがある。絵を描くと言うことはその時の精神状態がとても影響している。こうしてみると、石垣ではとても前向きな気持ちでいるようだ。

 風景を描いたいると、樹木はいつも出てくる。樹木は生命のエネルギーを発している。それは木によってそれが違っている。樹齢と言うこともある。大杉は何百年も生きてきた木としての、底深い力が宿っている。そういうものを直接意識して描いたわけでは無いのだが。

 見ている私もエネルギーを発してその反射を受け取っているような気がする。木は見ている私に反応をしているように思えることがある。そのてん、空や海とは違う。山とも違う。しかし、田んぼは生き物のようで、樹木と似たものを発している。そういうことはすべて妄想なのだろうか。妄想であったとしても別段かまわない。幻覚であろうが、そのように見ている世界である。

 樹木はデッサンをすると、まるで人物デッサンをしているようなきになっている。人物デッサンというものは、描くことによって人間の探究をすることであろう。自分が人間をどう考えているのかがデッサンに反映する。樹木デッサンは樹木の研究なのだろうが、自然というものを直接に感じることになる。

 樹木を描いていると、自分が自然というものをどう見ているかが一番反映する。自然観が出てくる。怖いものと見ているのか。親しいものと見ているのか。その中に行きたいのか。離れていたいのか。思い出の中で見ているのか。樹木の造形というものを探っている。樹木の命を探っているのか。

 マチスの絵を見ていると、まるで研究者が分析をするかのように対象を、分析的に見ている。ゴッホの絵を見ると、拒絶されている世界に入り込もうとしている。私は今のところ曖昧に眺めている。まだ、よく分からないので外界から眺めている。そんな絵である。それを残念だと思っているわけでもない。

 自然に対して無理矢理入り込んで、強引な自分側の世界観の形成はしないようにしている。むしろ自然から何かを感じ取るだけにしようとしている。あわてることはない。分かるときには分かるだろうと時間をかけ待っている。

 絵を描く為には待たなければならない。いつか何かが煮詰まると信じている。煮詰まらないとすれば、それが私というものの限界なのだろうと諦めるほかない。まだまだ100歳までは時間がある。

 
 

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