山梨の藤垈の風景をみた。
山梨の笛吹市に行ってきた。子供のころの風景を見たくなった。生まれ場所は藤垈の奥の一軒家の山寺向昌院である。標高が400メートルほどあり、甲府盆地を眺めて暮らす場所である。藤垈は甲府盆地のお盆の南の縁にある村だから、御坂山系の中にある日の当たらない北斜面の、甲府盆地に向って刻まれた細い谷間の村の一番奥の寺である。
寒村である。貧しい村という事もあるが、寒い村である。子供のころの冬の記憶は寒いばかりである。寒い中での薪の準備の山仕事が楽しい思いである。燃料の自給という事が普通に行われていた。冬は家の中にありったけの布を巡らせて、テントの中で暮らしていたのだ。その吊るされた布が、時々風で揺れるのだから、家の中と言ってもまるで外と変わらない寒さだ。
部屋の中央に掘りごたつがあって、夜はその周りを取り囲んでぐるりと穂車線上に布団を敷いて寝るほかなかった。掘りごたつの熾火がなければ、とても寒くて寝られるものではない。夜になるとネコも炬燵に潜り込む。潜り込んでは二酸化炭素中毒になってフラフラになっては出てきた。猫はその加減をよくわかっていた。猫は苦しくなるのを分かっていても、こたつに入らないでは寒くていられなかった。
空は谷間の三角形で狭い。冬の間は家に日が当たるという時間がほとんどない。凍り付きそうで寄りそって暮らすほかないような暮らしである。生活は自給自足である。おじいさんが村役場に勤めていた。檀家さんは200軒くらいある小さくはないお寺ではある。200軒あるとお葬式や法事が月に一回ぐらいはある。しかし、こうした寒村の檀家さんなのだから、お寺の暮らし向きが楽というはずもない。
ニワトリがいて、ヤギがいて、ミツバチがいて、鯉がいた。そうお蚕さんも飼った。家の排水は池に流れる。池の鯉はそれを餌にしている。その池は田んぼの溜池になっている。私が考えた自給自足は向昌院に始まっている。日陰の田んぼは収量は少なかった。
前の代の住職は生活苦で自死してしまったお寺だ。おじいさんは東京生まれで、若い頃は北海道に本山から布教に派遣されていた。その後この藤垈の向昌院に派遣された形で入った。そして地元の人が、出て行かれては困るというので、おばあさんと結婚させたという話だった。
おばあさんは笛吹川のほとりの油川の石原家というところの末娘で、看護婦さんだったそうだ。実に興味深いおばあさんで、鶏を飼うなどという事はおばあさんと一緒にやったことだ。おばあさんは小国鶏を一緒に飼ってくれていた。卵を自分で温めて何もしないでいた。おじいさんは多分怒ったのだろう。卵を産まないというので、捌いて食べてしまった。おばあさんと一緒に泣いて止めたが、相手にもされなかった。
仕方なく、東京の家で小国を飼う事になった。今思えば私が向昌院にいるときには母が鶏の世話をしてくれていたことになる。母はそういう私のわがままを受け入れてくれていた。蛇も、鼠も飼った。鶏は200羽も飼った。子供のころそういう事で何か言われたことがなかった。気付かない私もばかな子供である。気付かせない親は偉い親だ。
おばあさんはお寺の北側に並木になっている梅の木の下で、よく甲府盆地を眺めていた。私はそばの梅の木によじ登っては少しでも高いところから眺めた。そして、必ずこれほど良い景色の場所は他にはないおばあさんがいう。湖のように丸く広がる盆地。中央に線をひいたように流れる笛吹川。流れに沿って点在する小さな集落の名前を教えてくれた。それがおばあさんの生まれた油川の集落である。
花の季節になれば、盆地が花で彩られる。田んぼに水が入れば、湖のように広がってゆく。あそこが油川だと何度も教えてくれた。これも今思えばという事だが、生まれた家に帰りたかったのではないだろうか。それほど向昌院は厳しい暮らしのお寺だった。ところがその厳しい暮らしが面白くて仕方がないほど好きだったのが、子供の私だった。
一日中遊び惚けているのだから、面白いに決まっている。山に入っては薪を取る。風呂を沸かすのが私の役目で、一日分の薪を拾っては風呂を沸かす。役目と言っても鶏を飼うのと風呂を沸かすのは面白くて仕方がなかった。ちゃんとした薪が木小屋には一杯あるのだが、それは風呂には使ってはならない事になっていた。良い薪は炊事用だ。風呂は生木でも何でもいいから燃やせという事になる。外風呂だから、煙むってもかまわない。
そんな子供の楽しさと向昌院からの眺めは繋がっている。狭い谷間の暗がりから、明るい広がりを眺める。自分の居場所を確保したうえで外界を眺める。眺めるという、よそ事で風景を見る。あの明るい甲府盆地で起きていることは別世界である。
向昌院という安心の確保された場所から、美しい世界を眺める。この感じが私の絵を描く位置になったのだろう。自分という内部的安心立命があったうえで、外の世界を眺める。あくまで外部者としての景色。眺めるのであって踏み込んでは行かない世界なのだ。
風景を描くという事はどうも風景に絵を探しているようだ。絵になる場所はないかと思って探している。するとここは絵になるという場所に出会う。結局は絵というものが前提として存在する。絵になる場所の感覚は、今までのこびりついた絵に対する知識や観念の集積。そして生まれ育った環境。
絵になる場所を写しているということが、絵を描く行為の半分である。半分というのは、もう半分というのは描き始めると、絵になるはずの絵がどこかへ飛んで行ってしまう。絵にしようと思って描いているようではない。風景の持つ外見の奥に何か私を引き付けていたものを掘りだそうとしている。
田んぼを描く。田んぼを自分が食べるお米を作るという場所としてその田んぼを描く。何とか「自分ごと」に風景をしたいという事かもしれない。まだ風景を突き放しているのかもしれない。眺めている風景から、見るという意思の風景を描きたい。
久しぶりの甲府盆地は想像以上に自分の底に焼き付いていた。どこもかしこも描きたくなる空間だった。絵になると思える空間である。ここからすべてが始まったことは間違いがない。この良い景色を自分のものにしたい。自分というものがこの風景とどこかで繋がっている。
それは子供のころの楽しかった暮らし共繋がっている。寂しさとも繋がっている。子供の私が今の私と深い関係があるように、今の私が何がしたいのかは、子供のころの夢や希望と繋がっている。あのころの夢を実現しているのか。そう問われているような気がした。
今石垣島で描く景色はあの頃の甲府盆地の眺めとやはりつながっている。もう甲府盆地では失われてしまった風景を、石垣島で確認している。また、向昌院の眺めを描きに来ようと思った。今度は暖かくなった花の頃だろう。