水彩画の「自画自習」

   





 石垣島に来てからの二年間は水彩画を学び直している。水彩画の「自画自習」だと思っている。いよいよ「自画の確立」に進まなければならない。ここからが難しいのはよく分かっている。しかし一度ご破算にしたのだから、なんとしても自分の世界の表現を見つけるつもりだ。

 いい絵を描くとか、絵は何かとか言う以前に、水彩画というものを初歩の初歩から学び直してきた。そのつもりだったのだから、当然のことであるが、基礎ができたと言うことは嬉しい。水彩画の描き方は理解した。水彩画小学校は卒業して、水彩画研究所に入ったぐらいのところである。

 小田原にいた最後の頃は、人が作り上げた絵から学んで身についてしまった悪い癖のようなものを、どうやって捨てるかに専念していた。それもなかなか大変ではあったが、何とか拭い去ることは出来た。他人のいい絵に頼ることは無くなった。頼ったところで私絵画は始まらないと言うことばかり考えていた。

 石垣島に来てからはもう一度自分の目が見て惹きつけられる風景を、自分の何が惹きつけられているのかを考えてきた。見ているものの意味を考えながら、見えたように描こうとやってきた。見えたように描くと言うことは水彩画の学び直しであった。

 空ならこんな描き方をするという、身につけた描き方でやるのであれば、それなりには描けるわけだが、自分の目が今見ているように、なぜ空をそう見るかを自覚して表現するために、水彩画の方法を研究してきた。それは余りに多様であって、日々空は異なって行く。たぶん自分の見ているも動いているのだ。

 実に水彩画の表現も多様である。同じことでも違う方法でそこに至ることもある。同時にこれでなければ、この表現は出来ないというものもある。そうして、一つ一つ積み上げる事はできているようだ。もちろん絵画の表現が出来るようになる訳でもないが、表現する技術は身についてきた実感がある。

 いよいよ何を描くに向かわなくてはならない。大事なところに来ている。何が描きたいのかを見つめなければならない。見えていると言うことがどういうことなのか。何故、そこを見ると惹きつけられるのか。惹きつけられると言うことは、何故なのか。

 そして、自分の中にあるものを自分の絵画として表現できるのかである。ここからは昔に戻っていて難しいところである。ご破算にして、初めから学習して、見えているようにはある程度出来るようになってきた。そうなると、絵になるか成らないかは、自分の中にある絵画だけの問題になる。

 水彩画研究所の先生は目の前にある風景である。自然ほど良く出来たものはない。その自然に人間が生活のために農業という形で折り合いを付けている。この石垣島の風景は、その意味で私の求める世界観には理想的なものだ。この考えと、見えているを、どう結び付けるのかである。このすばらしい石垣島水彩画研究所であと10年なんとしても研究したいものだ。

 冬水田んぼを描いてみた。名蔵の奥の白水田んぼである。ベラ望遠鏡のすぐ下である。すぐ下なのだが、道は通じていない。まるでカフカの城塞のようだ。観光客が迷い込んでくる。初めて冬水田んぼを描いてみた。今年は何故か、あちこちで冬水田んぼにしているのだ。秋起こしをしてから、わざわざ水を入れている。代掻きもしたのかと思えるほど、きれいな田面である。

 水を溜めるなら、ここまでやった方が後が具合が良いかもしれない。なぜか、今年の冬の田んぼはどこも手入れが良い。これも、コロナ自粛の波及効果かもしれない。石垣の田んぼは冬水田んぼが良い。それは生き物の多様性にとって良いことだからだ。

 特に名蔵地域が鳥の保全地域に指定されると言うことであれば、田んぼはできる限り水が張られている必要がある。水鳥の飛来は間違いなく増えるはずだ。田んぼがいくらか沈殿効果となって、赤土の名蔵湾への流出も減るかもしれない。一ヘクタール近くある、谷間の30枚ほどの田んぼに冬水が張られている姿はすばらしい景観である。

 そのご苦労も思うと、描いてみたくなった。たぶん冬水の苦労はやってみたものしか分からないことだと思う。この感謝というか、苦労も含めて描くものなのではないか。それだから田んぼが美し見えるのではないか。風景を描くと言うことは自分にとってはそういうことなのだと思う。

 人間が関わる自然。人間と自然が折り合いを付けている姿。ここに惹きつけられる。手つかずの自然では、美しいとしても模様になるだけだ。人間の祈りのようなものがあって、思いがあって、その思いまで描くことが自画自習なのだろう。

 日本の自然の美しさは里山にあると日本人は知っていた。ところがもうその里山の風景はほぼ失われた。観光目的の人工で残された里山はあるが。国際競争力のある農業では土の畦など無理である。田んぼの土の畦の豊かさは自然との調和にとって貴重なものなのだ。コンクリート化すれば、失われてしまう自然がそこにはある。

 水で覆われた田んぼという空間とそこに残された島のような土の畦、これで生物の多様性が維持される。畦の昆虫が田んぼの虫を食べる。畦はバンカープランツである。白クローバーがいいと思う。白くローバーの緑はその理由が分かればどれほど美しいものに見えることだろうか。

 私の絵を見て白クローバーだと分かることは無い。そんなことが分かる絵はくだらないと思っている。しかし、田んぼと畦と、そこに育つ草とが織りなす美しさは表現しなければと思う。水が織りなす、人間の関わる自然。それが美しい自然だ。美は人間のための美だ。

 石垣島の田んぼはすぐ脇には人を寄せ付けない森が続く。この森がこの田んぼを豊かにする森となっている。海を豊かにする森なのだ。森と田んぼは響き合い息づいている。そういうことを描きたいものだ。ここを大切なものとして描いて行きたい。

 この大切さをわたし自身がよくよく感じていれば、目の前の風景もそのように見えてくるはずだ。その見えてきたものを描きたいと思う。それが石垣島で描くことになった役割なのだと思う。自分で見つけた道である。

 昨日から小田原に来ている。石垣島の家を朝9時に出て、3時には小田原舟原の家である。それでも小田原来てみると石垣で絵を描くという意味が再確認できる。これが2拠点居住の良いところだろう。2週間の小田原で農業生活である。短い期間だが、農業に専念しようと思う。

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