コロナの中をどう生き抜くか。

   


 石垣島のパイナップル畑。先日まで耕地整備がされていたと思ったら、たちまちに植えられたパイナップル。1ヘクタールぐらいある広い畑である。この畑の方に絵を描かせていただく許可をいただくことができた。新聞で見たよと言ってくれた。有り難いことだ。良い絵を描いてお礼をしたい。

 最近は毎日この場所に行って描かせて貰っている。実に美しい出来上がった風景である。それがかえって難しいところなのだが、良い場所が耕地整理されてさらに良い場所になった。以前はこの道の際には木の茂みが続いていて、展望が無かったのだ。

 この畑の際に植えられた、ヤシやクバが石垣らしくて、大きな景観に溶け込んでいていいものだ。美しい景観にするために、木を植えている。こうした気持ちがすごいと思う。畑という自然。美しい場所を耕作すると言う気持ち。

 海と畑の関係はすこしづつ見えてきたのだが、空との関係がまだみえない。11月に入って曇り空ばかりで、どうも行けない。海の色はそれでも面白いのだが、空は自分の意志が入らないで困る。自分の描く空にならない。

 雨も多い。雨の日の海と畑もいいものだ。アトリエカーがあるので、雨の日は水彩画の日だ。乾きの遅い状態が自分の描く流れにちょうど良い。余りに早く乾くと黒ずむと思う。そんなことを思うのは私だけなのだろうか。雨の日は水彩の色が美しい。

 日本の敗戦は平和主義で行くことを日本人に教えてくれた。福島原発事故は人間にこのままの競争経済を進んではダメだと言うことを教えてくれた。そして三度目の今度はコロナパンディミックによって、人間の生き方と死に方が問われているような気がしている。

 絵を描くことだけの暮らしているので、絵に専念するには良い機会であった。コロナは私の人生には案外に良い機会になったのかもしれない。絵を描くこと以外はやりたくてもできるだけやらないようにと言うことになった。引きこもりなどと言われて、良くない暮らしとされていた孤独生活が、むしろ奨励されているわけだ。

 宅急便などがきても、インターホン越しにそこに置いていって下さいと言うことが、決して偏屈とは思われないで、むしろ相手からも感謝されるというような新しい日常になっている。何があっても人間はそうは変わらないものだが、今度ばかりは少しは変わるかもしれない。

 たとえコロナワクチンが出来て、今回は終わったとしても、次の感染症は必ず登場する。嫌でもきてしまう。世界はもう感染症の供えなくしては安心して暮らせない状況になったのだろう。戦争、原発事故、感染症の蔓延と不安な世界はどこまでも続く。

 感染症など恐れるに足らないとする人もいる。自分だけは感染しないと信じているらしい。感染しても発病をしないと信じられる人なのか、死ぬことを覚悟した人なのかどうもよく分からない。たぶん、命より経済が大事というだけの人なのだろう。

 一期一会と茶道では言われる。茶道の家元ではお茶会を以前と同様に行っているのだろうか。前にも同じことを書いた。禅堂の僧侶はマスクをして座禅をしているのだろうか。本堂ではマスクをして読経が読まれているのだろうか。マザーテレサならどうしただろう。

 石垣島では徹底して自粛生活である。小田原に行けば、不安ではあるが、外作業だから、大丈夫だと思うことにしている。コロナ生活は人間がどうしても内向きになる。それは悪いことばかりではないと思う。坊さんや修道士の修行などと言うものは内向きばかりである。

 自分の内側に確信を得ようとする。それはコロナがあろうがなかろうが何も変わらないものではないだろうか。絵を描くというのもそういうものだと思っている。少なくとも私絵画という、次の時代の芸術の形はそういうものだと考えている。

 コロナ時代の絵。コロナは私の絵に影響しているのだろうか。どうも影響は無い。むしろ、今のやり方をとことんやりなさいと言うことのようだ。

 いわば人類がコロナ教の修行僧になった。死を見つめてみろと言うことだ。キャバクラやホストクラブ遊びなどしている場合ではないだろうと言っている。コンサートやスポーツクラブもいけないということにも、それなりの意味はあるはずだ。自給農業はやりなさいと言うことでは無いか。

 絵をひとりで描くのは奨励されている。大きな展覧会は開催が出来ない。開催の準備が難しい。もし開催するとすれば、業者に一切を任せるほかないだろう。それは費用の点でかなり難しいことになるだろう。こうした費用の補助は日本にはないのだろう。経済の活性化とは関係がないものまでは手が回らない。文化とか芸術は、不要不急のものとしてこう言うときには一番に切り捨てられる。

 今まで以上に、描くことに専念しようと思う。こうした状況で気をつけなくては成らないことは、発表ができないと言うことで、おかしな方角に入り込んでしまうことだ。絵を孤立して描いていて、独りよがりになり、とんでもないことになる人は少なくない。座禅もひとりではやっては成らないと山本素峯先生に言われた。

 そこで、せめてものこととして、日曜展示を始めた。ブログのネット発表であっても、自分の気持ちは外の世界に一応開いている形である。ネットでは絵は分からないという人もいるが、分かろうと思えば充分に分かると思っている。ネットで絵を購入したことは何度もあるが、その気で見ればかなり分かるものだ。家で絵を取り出してみて、想像と違っていたなどと言うことはまずない。

 ネットの世界では毎日何千枚という絵が取引されているのだ。ヤフーオークションでは絵が売られている。いや、絵とも言えないものばかりなのだが、その中に本物がある。偽物が実に多い。しかし取引がされていると言うことは、ウエッブで良い絵が全く分からないわけでは無いとおもう。

 それでも、よく見れば絵であるかのか、絵でないのか。そういうことは分かる。絵の真偽についてはわからないが、自分に必要な絵であるか、絵で無いな、と言うことが分かるというだけだ。どうせ本物でも私には絵でないものばかりだ。その気になってみて見れば、そういうことはウエッブで充分に分かる。

 絵になっていれば、必要な人には絵に見えると信じている。ウエッブでの絵の展示をそのようなものと考えて続けている。ウエッブ展示はコロナ時代の羅針盤である。ブログを続けてきてつくづく良かったと思っている。

 現状を考えると、徐々に方向が出てきたのかというところである。これが独りよがりのことなのかもしれないという不安はあるが、ウエッブ場で自分の絵を確認してみると、そんな流れも見えるような気もしている。ウエッブで自分の絵を見ると、人の絵のように見ることが出来る。

 絵を描いている間はこうしてウエッブ展示を続けて行くことにした。石垣島に来て人とは離れて絵を描くことにした。そして今度はコロナで、只管打画の生き方をして良いということのようだ。何かが導いてくれているのかもしれない。と良い方に解釈をしている。    
                                                                                                                                                                                                                                                                      

 - 水彩画