第25回 水彩画 日曜展示

   

第25回 水彩画 日曜展示







78「フサキ岬の荒れ地」
中盤全紙 クラシコファブリアーノ
2020.10









79「フサキ岬の森」
中盤全紙 クラシコファブリアーノ
2020.10







80「名蔵田んぼの収穫」
中盤全紙 クラシコファブリアーノ
2020.10

 自分の中ではこのあたりの絵から少し進んだかなと思っている。正直繪が良くなったというわけでは無いのだが、見ているものを自分の色で描いている。意識的なわけでは無いが、やっと水彩画を描いている気がする。

 要領が良い方でも、才能がある方でもないので、何をやるにしても時間がかかる。この対応の鈍さは自分が何かに向かう速度としてはちょうど良いぐらいのようだ。繰返し描いている内に少し前に進んでいるかなと言うぐらいだ。

 おかげで前向きな気持ちで毎日絵を描くことが出来る。今日はどこまで行けるかなという気持ちで絵に向かうことが出来る。いつか自分の絵に至れるという希望を持って絵が描ける。これは幸せなことだ。ゆっくりだが、なんとなくわずか進んでいるような気分でいられる。

 本当のところは分からないが、迷いの中にいながらも、先行きに希望を感じている。だから、気分良く絵を描いていられる。これは幸せなことだ。何故こう言う楽観の中にいられるのかはわからないのだが、どのみち生きている限り絵を描くだけなのだから、前向きな気持ちで絵が描けると言うことは有り難い。

 2つ原因がある気がしている。一つは水彩画の技法が私にはとても難しい物であって、やってもやってもやり尽くした感が無いことによる。始めて出会うようなやり方に、よく出会う。それは前にもやったことを忘れているのかもしれないが、ともかく描き方において新鮮な発見をしている。

 もう一つは変化していると言うことだ。確かに前と少し違う。良くなっているとか悪くなっているとかは決められないが、わずかに変わっている。これが嬉しい原因である。変化が無いとすればそのあたりが終わりだ。

 行き着きたい自分の世界はまだ先にあるのだから、今のままでは話にならない。今を越えて行く。方角を間違えずに突き詰めて行く。今の絵を描いている状態は過去最善の状況ではないかと思う。絵を描くには十全である。それだけでいいと後のことを切り捨てられた。

 これはコロナのおかげもあるのかもしれない。余分のことはやってはいけない。絵だけ描いているのが一番いいと言う環境が出来た。例えば絵を描いている近くに人が来る。避けて人とは会わない。話もしない。そのことを気に病む必要が無い。コロナなのだから、その選択が正しいと言うことだ。

 穴の中に籠る達磨大師には慧可という道を求めるものが、腕を切ってぶつけてくる。達磨にしてみれば甚だ迷惑なことだ。コロナの時代にはこういうことは無い。濃厚接触は禁止。静かに絵を描いていられる。悲しい状況だが、絵を描くにはありがたい状況とも言える。人否人であることが推奨されるコロナ時代。

 石垣島で絵を描き始めたときにコロナ時代が来た。運命のようなものを感じる。テレワークである。繪を週一回ブログで発表をしていく。閉じるわけでは無い。開いたままの不要不急生活である。

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