日本は全体主義に進んだ。
日本はアベ政権引き続き、方角を見せないスカ政権とつづいている内に、全体主義に進んだ。しかもそれは日本人の選択である。日本人は自ら全体主義への道を進んでいる。この無意識とも言える選択が恐ろしい。
全体主義化を気付いている日本人の方が多いであろう。それでも仕方がないということなのか。全体主義を悪いものとは思わないのか。落ち目の日本を持ちこたえるためには全体主義も仕方がなかろうという、弱気な選択をしているのか。
アジア諸国からも追い抜かれた事を感じている日本人は、気持ちが焦って落ち込んでいる。少々の全体主義で傾向があったとしても、切り抜けられるならかまわないと間違った道を進もうとしている。アベノミクスは企業にのみに利益がもたらされ、下層国民は貧困への道を下っている。
企業が利益を上げれば、全体が潤うというのは嘘なのだ。企業は利益を企業に内部留保してしまい、新しい産業創出のための研究及び設備の投資をしない。そのうえ労働者の給与を十分に上げるということをしない。この結果日本の社会で過去にないほどの貧富の差が生まれ始めている。
それは中国に追いつかれそうなアメリカの焦りとも似ている。トランプはなりふり構わず、アメリカファーストを叫んでいる。そして、正義をかなぐり捨てたアメリカの行き方に、疑問を感じながらも強権のトランプを選択してきた。果たして、大統領選挙の結果でアメリカの方角は変わるのだろうか。
スカ政権は自助を強調している。政府はもう力の無い下層国民を助ける余裕など無い。と宣言した政権である。自分のことは自分でやれ。新自由主義経済と呼ばれる、無謀な競争主義経済である。上級国民という力のある者が富を得る。力のないものが下層国民に落ちることは自業自得という考えかたである。
その方が世界経済の中で戦うには有利と言う日本人の気弱な選択。人間は自由にやりたいことをやるときに、一番力が出る。やらされるよりもヤル気になってやるときに力が出る。農業が衰え、地方社会の底力が失われつつあるところから、日本人という歴史的に蓄積された力量が失われた。
公明党を見るとよく分かる。かつては平和の党と自称していたにもかかわらず、今や軍国主義自民党を補完する勢力になっている。あの新自由主義政党維新の会の大阪都構想すら、いつの間にか寝返りの賛成に回った。自らの政党の主義を失い、長いものには巻かれろと自ら全体主義になだれ込んでいる。
戦後日本が目指した福祉社会から大きく道が逸れてしまった。そんな余裕は無いと言うことをスカ政権は登場するなり、自助宣言をした。これから弱者を切り捨てる、階級社会が始まるのだろう。強者による全体主義社会が始まるのだろう。その予兆が、学術会議推薦拒否事件である。
これは他人事では無い。すべての日本人のことだ。日本はこうして全体主義への扉を開いたと、後の世に語られる事件である。そして、このままでは下層国民がその全体主義を自ら選択した事件と言うことになりそうである。全く悲観的にならざるえない。
学問を色別に分けて、政府に役立つものだけを利用しようという愚かさにはあきれる。政府にお墨付きをくれれば学問の役割は十分であると言う独善。聞く耳というものを持たないのだ。それは民主主義というものを否定していると言うことなのだろう。
民主主義は多様性を価値としている。違うものが集まることで、より強い社会になるという考え方である。たとえ正しそうに見える考えであっても、それだけに染まれば、柔軟性を失う。全体主義は一時は有効に見えるが、長期的には大きな失敗になる。
人間は自由を失ったときには力を失う。芸術の衰退状況を見るとよく分かる。社会が劣化して行くときには、リアル絵画評価されるようになる。価値の多様性が分からなくなるから、即物的に写し取るというような、技術だけの絵画が評価されるようになる。ロシアリアリズムはその事例だ。
ピカソ、マチスがわからないものの代表とされた時代がある。芸術は分からないから良いのだと、あるいはデタラメが何故良いのかと言われたものだ。現代はもう芸術は失われた時代。商品絵画の時代。商品は分かりやすいものに限る。新自由主義経済では販売対象にあわせるのが商品である。
学問の価値は科学性にある。だからまだ維持されている。経済至上主義の中でもかろうじて科学の優位性がある。政府としては経済性だけを重視したのだが、科学は経済を越えた価値観で出来ている。それは芸術も同じなのだが、芸術の方は商品経済に覆われやすいが為に、自ら崩壊の道を進んでしまった。
自分の哲学や世界観を切り開こうなどと言う芸術の方角は、経済性に押し流されている。そして、政府は商品芸術はアニメーションやゲームのなかあるとしているのだろう。
学術会議の任命問題が何故、全体主義へ繋がるのか。ここがまだ十分理解されていないのではないか。気に入らない、安保法制反対の学者を排除した。これは共通認識であろう。この事件に対して人事というのはそんなものだという意見が広がっている。ここが危険なのだ。
こうした学者に対して、政府の都合で選別を加えれば、学者も政府に都合の良い研究をしたがるようになるだろう。つまり、現在学術会議は軍事研究は拒否している。ところが、政府はこれをさせたい。忖度して軍事研究をする学者を優遇する。
すでにこうしたことは起きている。農業分野では農薬や化学肥料、あるいは大規模農業の研究をする学者が優遇されている。地道な基礎研究をしている学者は冷遇されている。学者は骨がある人が多いので、冷遇されても基礎研究を続ける人がまだ居る。しかし若い学者志望者は前途をたたれている。
基礎研究のような不要不急のものは入らないというわけだ。まさに芸術など不要不急だから、無くなったってかまわないと言うことになる。余裕の失われた社会なのだろう。この行き方は人類の進歩と言うことを考えたときに大きな間違いである。
全体主義は強制から始まるわけでは無い。それぞれが政府を忖度して、選挙で投票をして作り上げて行く。それが始まっているのだ。そして、その不自由な社会に気付いたときには、もう戻れなくなっている。研究したい学問が禁止されている社会である。やりたいことがやれない社会になる。
描きたい絵が自由に描けない社会である。歌いたい歌が歌えない社会である。自分の人生を政府の許可範囲でしか選択できない社会である。もう半分踏み込んでいるような気がする。これを逃れるためには、自給自足的なコミュニティーに脱出するしか無いように見え始めている。
しかし、今ならまだ間に合う。今なら全体主義を防げるのだ。次の選挙で自民党に投票しないと言うだけのことで良い。ここで気付かなければ、政府はますます国民の選択の幅を狭めるだろう。野党がダメだとか、共産党は怖いとか、そんな状況はとっくに過ぎている。