地方生活を希望する若者の可能性
コロナウイルス蔓延の結果日本人の暮らし方に、変化の兆候が見えてきている。これは人間の防御本能が働いてのことだと思う。競争社会の限界に命が反応を始めている。新型ウイルスの登場の原因の一つには、大量生産大量消費の地球環境の破壊がある。
地球の汚染が限界を超え始めているか兆しが新型ウイルスの出現である。新型ウイルスに対する見解のほとんどが、自然界に隠れていたものを人類が自然に入り込みすぎて、接触してしまったとみている。こうした言説は新型ウイルスを安易に考えているとしか思えない。
ウイルスの出現はそれだけではないと思う。自然界を人間が作り出した化学物質が変異を与えている。ウイルスが新しい化学物質との遭遇で変異をしている。その変異の結果人間に感染する形に変わっている可能性がある。人間は闇雲に新しい化学物質を作り拡散させてはならないのだ。
人間の暮らしの都合で、新しい化学物質をまき散らし続けた結果地球環境が大きく変化を始めている。マイクロプラステックによる海洋汚染は、もうすでに限界を超え始めている。マイクロプラステックの総量が海の生物量を超える日も遠くないだろうと予測されている。もう今止めたとしても手遅れという状態である。
それに対して、せいぜいスーパー袋の有料化程度の対応しかとれなくなっているのが人間の世界である。これでは、未来から観ればどうしようもない対応しかできない人間世界だろう。そうしたことに人類は気づき始めている。それが、もう都会での暮らしはよした方が良いという、本能的な気づきだ。これは近代文明の否定なのだ。
ところが現実の政治や経済は変わることが出来ない。競争社会の維持だけをみている。地元志向の若者の出現を、日本の経済の衰退の原因になるとしか見れない人達がいる。それほど、競争社会の価値観に浸りきっているのだ。新自由主義経済と呼ばれた一国主義がまだ先があるとでもいうのだろうか。どう考えても未来はない。
このままでは現代文明は終わるというのが、コロナウイルスの示した方角である。それでも、既成概念にとらわれた人間達は、この下り坂の中でどのように自分だけが競争に勝てるかを小賢しく模索している。そして、地方生活を選べばどのように日本が衰退するかなどと模式図を作っている。
もうそんな事態はとうに過ぎている。人類の文明は明らかに転換期に来ている。人間が生きると言うことの意味を考え直せない人達が、地球を崩壊させるのだ。せめて、その崩壊に手を貸さないと言うことが、今に至ってはまともな人間の生き方になる。
アベ政権が、繰返し政策の失敗を繰り返している。そして朝令暮改で混乱を増幅させている。しかもそれは既得権益をいかに守るかだけが、裏にある意味である。今こそやるべきことは新しい人間の生き方を模索すべき時であると言うことを、少しも見えていないのだ。
だから、やることなすことがちぐはぐになる。政府にはもう能力がないから、何をやるにも、既得権益を守ろうとする勢力への丸投げである。補助金をどのようにぶんどるかのすばらしい機会としか目に映らないのだ。自分たちの既得権益をいかにまもるか、それだけである。人の命が、お金より軽い。
地方の暮らしや自給的な暮らしを否定し、その問題点を指摘してる文章はほぼすべてが、既得権益を守るための考え方である。若者が地方に分散して、競争社会を離れてしまえば、自分たちの領域が危うという意図が隠された発言に過ぎない。競争社会の勝者の生き残りをかけた論理なのだ。
しかし、文明は方角を変え始めている。どれほど既得権益を守ろうとしても文明は戻ることはない。新しい価値に向かい動いて行くだろう。新しい価値とは金権主義の否定である。お金が欲しい教の終焉である。お金があれば何でも出来るが否定されるのだ。
お金があっても、無くても、暮らし方でコロナに感染する。お金があっても死んだら終わりだ。ブラジルの大統領のように、経済のためにはコロナを無視しろというのが、文明の警告を無視しろと言うことになる。コロナは単なる風かもしれない。しかし、次に起こる感染症がはるかに手強いものである可能性はある。
その時に備えて、コロナ程度の今の段階で、文明の方角の変更を促進しなければならないのだ。文明の動きを止めようとする既得権益者はいくらでもいる。トランプ氏など良い例だ。アベ氏もその類だ。そうして抵抗をしても混乱を増すだけになる。
地球は新しい局面に動いたと考え、新し生き方を模索するのが人間のありようである。確かに持てる者は捨てなければならないから、もがくであろう。しかし、若者がいち早く暮らし方を変えようとしているのを止めてはならない。既得権はどうあがいても消えて行くのだ。
むしろ、持てるものも新しい価値観の中でどう自分を生かすべきかを模索すべきである。持たないで生きることである。持たないで自由になるということだ。自分らしく生きると言うことが、実は捨てるということから始まると言うことになる。捨てるというのは何もものを捨てる断捨離だけではない。
生き方を捨てると言うことである。そうしなければ新しい文明のなかで、自由に生きることは出来ない。人間は自分の体力で自給自足で生きることは出来る。すべてを捨てて、自由に生きることを恐れることはない。なんとかなるのだ。
日本という水土は実に豊かである。一日1時間の肉体労働で、食の自給が出来る。一人100坪の土地で可能である。その暮らしは実に健全で愉快である。もし一人で孤立してやろうとすれば、2時間が必要になるだろう。共同でやれば、1時間である。