コロナは自分に向かい合う時間をくれた。

   

 

 コロナは自分に向かい合う時間をくれた。結論から言えば、コロナウイルスの時代であるとしても、やりたいことをやり切らなければならないという事になる。死ぬその日まで、一日一日をしっかりと生きてゆきたい以上、自粛が委縮になってはならないと考えざる得ない。

 死ぬことは受け入れていることだが、私がコロナにかかるという事で、医療機関が崩壊することになるのは、困ることだ。もし感染したときには人工呼吸器など、不足する可能性があるのであれば、使わないでもらいたい。医療に十分に余裕がある時の使用に限定してもらっていい。

 私からの感染拡大には最大限気を付けるのは当然のことだ。石垣島に戻る時には2週間人に会わないのも当然だと思っている。やりたいことをやらしてもらいが、人に迷惑をかけるのは本意ではない。コロナは自分のこれからの時間何がやりたいことなのかを、問い直してくれた。

 石垣島に引っ越しをしてから、2年近くがたつ。ただ絵に向かい合えることになっている。他のことを捨てることが出来た。人間関係もある意味断捨離したのである。生きることに一番重い断捨離であろう。石垣では特に新しい人間関係を作らないことにしている。個という自分に向かい合う事で、絵を描きたいという事である。先ずは面壁9年と言うつもりである。

 絵を描くという事は自分に向かい合う。ということであり、自分という存在を自覚したいという事なのだと思う。そんなことを考えるようになったのはやはり、得度をして、僧侶として生きる道を選んだからなのだと思う。いわゆる、僧侶としての正道ではないが、道元の示した仏道を、禅の道を全うしたいと思う。

 今日一日がどれほどの自分の道の方角であるか。それはぐうたらに寝ている一日であれ、精一杯畑仕事をする日であれ、良く絵を描く一日であれ、同じである。自分にとって十分な一日でありたい。後悔というようなものが、どこにもないような日々を生きたい。

 それはある意味不十分で後悔ばかりの日々だからだ。あれも出来ない、これもできない。今日も不十分だったという、情けなさの中に生きているからこそだ。情けない自分というものを受け入れざる得ない。情けないダメな人間の、生切りの一日を認めたいという気持ちが本音の所だ。

 絵を描いているという事は、出来ないという事に向かい合っているようなものだ。何も有意義なことが生み出せない、自分という人間に向かい合っている。ゴッホは美術館にあるような立派な絵を描きたいと考え、立派な絵を描ける自分というものの価値に安心したかった。ところが、あれほどの絵を描きながらも、評価はされなかった。社会に有意義なものを生み出せない自分というものに絶望して、自死してしまったきがする。

 社会からの評価というものに自己評価を重ねることは無意味だと思っている。自己評価をどこまで自立できるかが大切なのではなかろうか。自分が自分という人間を認められるか。ダメでもいいじゃん。と唱えることにしている。

 社会からの不当な評価というものがゴッホを狂気に追いやる。私の絵に対しての社会の評価が不当だという事は全く考えていない。そういう事だろうなと思っている。評価というものから、自分という存在を考えてみても無駄だという事を考えている。自分のことは自分で決めるほかない。

 ダメで何が悪いんだと居直っている。自分の生きる充実というものは、自分の感じるこの肉体と脳みそだけが決めることだ。その覚悟が出来ているわけではないが、そう励ましながら生きている。歳を取ってよかったことの一つのような気がする。

 年をとってもまだ先がある。いまさらに面壁9年と考えている。この先の時間があるという事をコロナは強く自覚させてくれた。病気になって、生きているという事を知るという話を読む。病気から生還して今を生きているという事を充実として感じられるという話を聞く。重い病気をしたわけではないが、コロナはそういう自分の生きている充実を改めて考えさせられた。

 何か、自分の場合は石垣に来たけれど、それでいいのか。こういう日々で良かったのか、今ここで再確認しなさいとコロナは言いに来たようだ。石垣島の人のいない場所で、絵を描いているときに、こんな場所にまで、なぜ石垣市の広報車が自粛しろと言いに来るのかと腹が立っていた。

 ところがどうもそうではない。そういう生き方でいいのかと問いかけてくれていることは有難いことと思わなければならない。大学の時に旧生協の2階のアトリエで真夜中に絵を描いていて、とつぜん、こんな時になぜ絵を描いているのだと、怒鳴り込んでくる中核派のヘルメットを思い出させてくれた。

 こんな時だからこそ絵を描いているのだ。こう答えるほかない。あの時ヘルメットには腹が立ったが、今思えばあの問いかけは重要だった。幾晩か話している内に親しくなった。なぜ絵を描いているんだ。これは問い続けてゆくべきことだろう。広報車はわざわざ、傍まで来て自粛してくださいとテープを流してくれている。

 そうだ、自粛して絵を描いているわけではないと思う。生命を一番に躍動させるために今絵を描いているのだと、再認識する。ボーと絵を描いていたことを活性化させてくれる。これでいいのか。間違いないか。こんな絵でいいのか。そういう事になる。

 絵を描いているという事は、何も生み出せないという事に向かい合うという事のようだ。そんなことをしている場合か。この非常事態にこんなことをしていていいのか。本当にダメな絵を、無駄に書き続けている日々に向かい合わなければならない。納得できることはほとんどない。

 なぜ、見ているものを描くことができないのだろうと、自問するばかりである。生きるという事は何も成果らしきものはないという事のようだと思う。成果の生み出せない自分というものに、直面しろという事が、絵を描くという事のようだ。何にもならない、どうにもならない自分というものが描いた絵というものになるだけのようだ。

 ものに依存して生きるという事ではどこまで行ってもだめだという、禅の教えを思い出す。それは乞食禅だと三沢先生は言われていた。お前はその辺の石ころなんだと言われた。私の中にあるどうしようもない、傲慢のようなものを捨てろという声。

 たぶん、捨てることが出来ず、絵にしがみ付いて生きてきた。絵というものにしがみ付いて自分の存在の有意義性を確認しようとしてきたのだろう。しかもそれではだめかもしれないという事を薄々意識しながらの中途半端できた。

 そういうしがみ付きでしか生きられない自分という存在には自覚はある。そのどうしようもない自分に向かい合うために絵を描いているような気がする。コロナも悪いことばかりではないな。


 

 

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