農家の納屋は物であふれている。

   


 
 パフィオ・ロスチャイルドディアナム
  調子は良いようだ。特に特別なことはしていない。雨にも当たるままである。植え込み材料に珊瑚を混ぜてみた。調子が良いようなので、この系統のパフィオを、もう少し増やそうかと思う。コレクション的である。

 貧乏人物持ち。貧乏な家はものが多い。と断捨離党の人がのたまう。偉そうなことで結構なことだ。人がごみに囲まれているのが、そんなに腹立たしいのか。うらやましいのか。引っ越しに伴い断捨離をせざるえなかったが、こんなにも痛みが続いているのかと悲しい。捨てた物への悔恨と謝罪の思いがある。

 物欲と物が多いは意味が違う。コレクションをするような人は物欲が強いのだろう。イメルダ夫人のあの靴の膨大なコレクションはまさに物欲の象徴であった。果たしてそういう人を物持ち貧乏とは言えないだろう。精神の欠落部分に物を埋めて、修復しようとしているのだ。

  ごみ屋敷の主は必ず、ごみではないという。必要なものだという。ごみとは見えてもその人には必要なものなのだ。お節介な断捨離党の方が、ものを捨てろ捨てろと叫んでみても、命よりも大切なものを捨てられるわけがない。この人間の精神の闇が分からないとは情けない。

 そもそも人間は中途半端で、ろくでもないものだ。断捨離をできるような境地に本当に至れる人は、たぐいまれな人である。物から離脱できるということは、自分という存在だけでの安心立命ができた人なのだろう。うらやましいとは思うが、いまだそこに至らず。

 ものにはすべからく魂がある。その魂が見えなければ、絵など描けるわけがない。一年使わなかったものはいらないものだとルールをいう。物がなくなれば、正しく必要な物だけになり、心豊かに暮らせると言うのだろう。物に埋もれた豊かさに恨みでもあるのだろう。農家にとっても、絵描きにとっても、10年目に使うものが山ほどある。10年とっておいて良かったという充実感がある。

 静物画を描く人など、自分の精神に響いてくる、使いもできないモチーフを山ほど抱えている。描きたくなりそうなものをつい集めてしまうのだろう。物に自分がのめり込まなければ、静物画など描いても面白くもなんともない。モランディーのモチーフなど、使うこともできないガラクタのようなものだ。どうでもいいような物が山ほどあったのだろう。

 一年目に捨てて、必要になった10年目に買えばいいだろうと断捨離党の人は言うかもしれない。この合理主義は物には魂があることを知らないのだろうな。一年目に捨てた物の魂が、10年目に買った物を許しはしないのだ。10年間とっておいた物は必ず、喜びに満ちあふれている。それが物の記憶である。

 小田原の家に、10歳の頃におじさんがくれた、何でも無いドラセナがある。お店が立て直しされたときに、銀座通りの花屋さんで、買ってくれた物なのだ。それが60年もある。何度も引っ越しながら、生き残ってきた。ドラセナはいくらでも買えるが、おじさんがくれたドラセナは他にはないのだ。

 断捨離党の人によると貧乏人ほどごみが捨てられないそうだ。貧乏人というより、貧乏性の人間と言った方が分かりやすいかもしれない。農家は要るのか要らないのかわからないようなものが溢れている。私の家も凄いごみの量だった。断捨離はかなりしたのだが、まだ結構ある。結論から言えば、必要なものが、山ほどあるのだ。

 ともかく描きかけの絵がまだ半端じゃなくある。小田原から移るときに、あれほど思い切って捨てたのに絵の量は相いかわらず凄い。どれもこれも描いている途中の半端なので、すてられない。はっきりとダメだと思えば捨てられるわけだが、良くなりそうな種があるような気がしている。捨てようかと思うとこの先があるなと思えるもので、ついつい捨てられない絵がたまってゆく。

 と言っても絵も死ぬまでには捨てなければならない。捨てる前に一応記録だけは残したいと思っている。記録だけでもあれば、後で調べることが出来る。この先の絵の探求にいらなくなれば捨てられるのだが、学生のことに描いた絵ですら、何か今描いている絵の参考になる。

 捨てられないのには理由がある。断捨離は賛成だが、潔くそれが出来る人というのも、寂しい人のような気がしている。冷たい人ではないかと思ってしまう。少なくとも合理主義者である。絵を描くというような無駄なこととは縁のない人だろう。

 生きているというのは物の記憶の中にある。わかりやすいのが写真である。写真を見ることで、過去を思い出す。記憶を写真がよみがえらす。ドラセナから、おじさんの花を贈ってくれたときの気持ちまで思い出す。だから、60年捨てられなかった。別段ドラセナが好きというわけではない。

 文化財などと言う物は大体そんな物ではないか。パーミヤの石仏を壊したのも断捨離なのかもしれない。仏像などと言う物に思いを残してはならないと言う断捨離主義者なのかもしれない。そういうイスラムの考え方はどこか断捨離的ではある。

 禅宗の考え方にも本来無一物ということがある。慧能大師が言われた言葉である。何も持たないということなのだろう。物によって自分を支えないということだろう。そのこともあって、曹洞宗の寺院では寺宝のようなものは普通はない。仏像も大したものはない。

 物がない安心というものに至るのは一つの覚悟だろう。それは絵を描かないということでもある。絵に頼らないということでもある。実は断捨離には重い意味がある。その心境になれれば立派である。しかし、凡人には到底無理である。私は絵というものにゆだねようと考えている。

 弓の名人は名人の技量を獲得して、弓を忘れる。たぐいまれな弓の道を究めたうえで、弓が何たるものかを超える。弓の道の途上に生きるものが、弓を捨てることはできない。できることはひたすらに、弓の道の修行のみである。

 断捨離は身辺整理ということなのだろうが、修行の厳しい世界観でもある。本来無一物とは人間存在の絶対性にあるということだろう。生きるということは存在しているかいないかというような2元論を超えるということにある。根源的な世界ではあるということも、ないということも超えているということなのだろう。
 絵を描くというような、手段に依存していて、根源には至れない。という意味である。しかし、絵を描くということを断捨離できないで、絵というものに依存して修行するほかない凡人だという自覚。

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