テレビの時代の終わり方。

   



 雨が降った後で田んぼが煙っている。写真だとすこし暗く写って居るが明るいまばゆい日だ。何かたんぼから燃え立つような勢いがある。それが描ければと思って描いている。目には見えるが写真には写らないものがある。絵はそういう私にしか見えないものを描くところが面白いのだと思う。

  今の時代の雰囲気を作ったのはテレビだとおもう。テレビほど影響の大きなものは他になかった。いつの間にか様々な感覚がすり込まれた。それは良いものもあり、悪いモノも雑多にあった。テレビで作られた感覚で生きてきたよう感じがある。もう身体にテレビが入り込んでいたので、どこからどこまでが自分で、どこからがテレビなのか曖昧になっているほどだ。

 自分の美意識だと思って絵を描いていることさえ、テレビによって何が美しいのかをいつの間にか、すり込まれ教えられているようなところがある。テレビを見る人と見ない人では人間が違うと言うことさえある気がする。テレビを見てそれを現実だと受け入れた人は、生の自然を観ても、テレビ眼でしか見えなくなっているのかもしれない。

 これは人ごとではない。絵を描く上で恐怖心さえ覚える。自分のつもりで、偉そうに語っていたら、途中でテレビで聞いたことだと気づいてしまうことがある。ところが幸いなことに、それがだんだんに薄れてきた。テレビをいつの間にか見なくなった。スポーツ中継がなくなったことが大きい。朝の連ドラがつまらないこともある。年をとり世間への好奇心が薄れたのかもしれない。

 結局テレビが寂しくなって、見なくなった。夜すぐに眠くなるので、テレビを見られないうちにテレビの悪習から抜けた。よく言われるが、バラエティー番組とかクイズ番組というのがテレビをダメにしたのだろう。安上がりでも視聴率をとれると言うちに創造力が衰退した。

 芸人の力量次第で笑わせてもらえる事もあったが、同じ笑わせ方ではさすがに飽きた。娯楽というのは時代を反映するのだろう。笑いが反射だけの安手になっている。テレビ創造期には表現としてテレビを追求する制作者がいた。

 スポーツは同じことの繰返しだが、真剣さがあるから飽きない。オリンピックは面白いものだが、生で見たいなどとは思わない。むしろテレビであれこれ見るくらいがちょうどいい。箱根駅伝は毎年生で応援したがやはりテレビ中継の方がいい。だから日本で行われようが、アフリカで行われようが余り違いは無い。オリンピックの日本開催はいらないとこのブログでも主張していた。いまや延期になり、開催可能なのかどうかも分からなくなった。

 テレビの前で手に汗握る、擬似的現実体験は手っ取り早いものではあるが、たぶん随分薄められたものである。直に大相撲を観るのと、テレビとでは雲泥の差があるのだろう。薄められたもので満足してしまうと言うことが出来る人間になり、本モノのことがわからなくなる。こんなものと現実を想像する癖が充分に付いている。それこそ私はテレビ人間である。

 こうして私のテレビの時代が終わったことは良かったことである。テレビは経済が苦しくなれば、衰退は近いだろう。そうなるとNHK以外の民放はどうなるのだろう。ネットテレビではただ開設もなく将棋対局を流すものがある。こう言う番組はテレビと言うより、ネットと言うことなのだろう。制作する番組というものが貴重になる。経済性だけで作られていたものの末路である。資本主義の申し子がテレビだ。

 テレビの影響が薄れて世界が変わると思う。新聞の時代はテレビの時代に連なっていた。マスメディアの時代である。次には多様なものが混在する報道の時代になるのだろう。インターネットによる影響は当然大きいだろう。ひとつで圧倒的な影響力を持つものはなくなると考えた方がいいのだろう。

 コロナウイルスの蔓延は世界を少し変えるはずだ。テレビが十分な制作できなくなっている。NHKの連ドラもお休みらしいが、いつから撮影できるのだろうか。まあ見るほどのドラマではない。軍国歌謡曲の作曲など見たくない。コマーシャルが減少していることと、制作するために人が集まれない。たぶんテレビが再開するまでには視聴者の方が他の面白いことに移っているはずだ。

 テレビは競争主義の申し子だったのだろう。希少価値ではなく、視聴率の高いものが優れたものという時代。俗悪番組であろうが、洗脳番組であろうが、視聴率が高ければ通用して行く。良質なものが失われて行ったテレビ文化。有能な制作者が視聴率競争で脱落していったのだろう。

 テレビが現代文明を作り出した。政府よりも国民に影響した。次に来る時代はどうしてもインターネットの時代である。一人で制作して、一人で発信するものが、内容次第でテレビに対抗できる。表現として制作するという意味では、良いツールが出来たと言える。しかも、ネット文化は権威を作らないところがいい。

 テレビに接するよりもインターネットに接する時間の方が長くなっているだろう。みたいものは見る人間が選択している。この点では人間が自立するのだからいくらか良くなるはずだ。ユーチューブで音楽を発信している人が居る。テレビとは縁のないいい歌手がいる。

 PPKINNGと言う人はすごく味がある。明るいPPkinngが私の目標である。ポルトガルのファドの代表的な歌手アマリアロドリゲス。当然にすごい。世界中のものが同時に出現する。こう言うものが次ぎ次に発信され。自由に選択してみることが出来る。テレビが衰退するのも当然である。

 メディアを個人が生きる上で、発信し利用していける社会。映像文化をどこに居ても自由に見ることが出来るようになれば、当然テレビは終わる。そんなことを考えたら、絵の展示もしてみようという気になった。日曜水彩画展示を続ける。

 教育や医療がインターネットを通して、どこにいても受けられる次代が近づいている。学校というものが、通うのではなく受け手の所に来てくれる時代が近いかもしれない。地域差というものがなくなる可能性がある。石垣島で描いている私の絵も、石垣島から発信すると言うことは出来る。いつか、実物を見てみたいと石垣島に訪れる人が居ることだってないとは言えない。

 インターネットによって地域差というものが軽減される。与那国島に生まれて与那国島で死ぬことも又出来るようになるのかもしれない。子供は高校に行くときに島を離れる。そのときに家族も一緒に島を離れることになると与那国の方が言われていた。

 高校もインターネットで良い教育が行われるようになれば、後はそれぞれであろう。大学に行くのであれば、家族で島を出ると言うことはなくなる。むしろ離島での暮らしの方がすばらしいと考える人も出てくるのではないだろうか。

 - Peace Cafe