絵を描く意味

   



 絵を描くことには社会的に考えれば、何の意味もない。全くの無駄といってもいい。食べられないし、病気を防ぐことも出来ない。残念ではあるが私の描く絵は飾れば装飾になるというような絵でもない。それでも絵を描きたいと思う。残りの時間すべてを絵を描くことで費やすことで大満足である。それくらい絵を描くことが面白いことなのだ。

 好きなことを好きなだけやれることはありがたいことだ。70歳になり絵だけを描いていても白い眼では見られない。これはまさに歳をとった恩恵である。若い頃は絵を描いていながら、絵を販売して生活をして居ない状態に気分の塞ぐところがあった。

 今もなんとなく嘘くさい気分がないわけではないが、周りの冷たい視線というものは感じないので、随分と気が楽だ。良いご趣味でという事になる。芸術というものは役立つものを目指すだけではないと言うところが、なかなか難しいところなのだ。

 飾って装飾になるようなものであれば、役立つ絵と言えるのだろうが、そんな暮らしに収まりのいいような絵を描きたいとは思っていない。ひねくれているとも言えるのだろうが、芸術作品と装飾品は別物だと強く意識している。たとえ人類の救済になる絵が目標としても、そういう目標さえない方がいいのが私絵画だと考えている。

 ここを間違うと、見てくれの良いものを追いかけてしまう。役立つものを追いかけてしまう。これだけはやってはいけないと思っている。油断するとやってしまうから、意識して繰り返し拒否している。役立たないものをやっていればいいのだという覚悟だ。

 禅における修行僧は全く自分のためだけに生きているのであって、社会のことも周りの人のことも関係がない。修行というものは役立つようなものではダメなのだ。修行を衆生の代わりにやっているというような意識があれば、それは思い上がりだ。野垂れ死にの覚悟がない修行は嫌味でしかない。

 ここが少しわかりにくいが宗教の場合悟りを開いた尊いお坊様というような価値付けをするが、じつはそれは社会的な宗教の持って回った意味づけに過ぎない。お布施は衆生のために貰ってあげているのだと。これは実に都合の良い考えであるが、そこまでの価値が到底私にある訳ももない。

 宗教の場合はまだいい。信仰というような、超越したような世間の価値観で支えられている。ところが芸術は始末が悪い。社会的に無意味なような作品もあれば、総理大臣官邸に飾られ、社会に貢献しているようなものもある。そういう絵がその国の品格を表していることになるのだろう。もしそうだとすると日本の品格もたいしたものではないと思うしかないのが現状に見える。中国の政権では巨大な絵画を飾るが、恥ずかしいことだと思う。

 このように書くと、私の絵が芸術であると自慢しているように見えるかもしれない。しかし、全くそういうことではない。屈折していてわかりにくいかもしれないが、絵を描いているのはどこまでも個人的なことなのだ。私自身に役立つものであればそれでいいと言うことなのだ。

 それを私絵画と名付けている。私絵画は新しい絵画芸術のことである。過去にあった他者に対する表現としての絵画が終わったと言うことである。近代絵画と呼ばれた自己表現する絵画は終わった。社会に対して自分の内なるものを表現する芸術。こういうものが終わったと言うことである。

 芸術表現としての絵画が終わったにもかかわらず、私としてはどうしても絵を描きたいという欲求にしたがい絵を描く。それは自分の内なるものを探求したいと言うことになる。自分の見ているものが一体何なのか、とことん探りたい。勝手な話なのだ。

 これは私自身の見ているという世界を画面に表現して確認したいと言うことになる。これは社会には役立つものではない。あくまで個人的な問題である。大げさに考えれば、修行僧と同じで役立たずこそ意味のある存在。ただ、私の目に映るものが画面化できたとしたら、私の内なる世界は画面に実在させることになる。

 その画面が他者と私との間に存在しうるかもしれない。それは目的ではないが、結果的にはそういうこともないとは言えない。現代の芸術はそういうまるで役だ立たないところにあるのではないかと考えている。

 今更そんな風に書くと嘘になる。全く期待はしない。私に見えているものは、社会的に価値があるとは全く思わない。たぶん他の人には到底理解しがたい、見え方に違いないと自覚したい。自然養鶏や自給農業で暮らしてきたものの自然の味方のようなもので見てゆきたいのだと思う。

 このところ田んぼにはわずかに穂が出てきている。石垣島では出穂期である。田んぼの一番繊細なときである。田んぼの色も不思議なムラが表われる。生育の進度で随分と差が出てくる。イネは授粉をしようとしている。農家としては今年の田んぼの結論はほぼ出たようなものである。

 こういうことが田んぼを見ていることなのだ。どう考えてもどうでもいいことなのだが、私にはドキドキすりようなことになる。それが見えるから、それを絵に描いてみたいと言うことだ。間違いなく他の人にはどうでもいいことのようだ。農家の人にもどうでもいいことだろう。

 これが私の絵を描く意味のようだ。いまさら他の人にはどうでもいいことを何度も何度も描いているような気がする。しかし、私絵画の自戒がないと、自分に至れない。これだけはやり遂げたいと思う事は、自分の絵を描くというだけのことが絵を描く意味である。

 - 水彩画