木村花さんへの誹謗の異常を気づかぬ社会

   



 女子プロレスラーの方が、SNSで誹謗されて死んだ。私のブログでさえ書いていると単なる罵声を書く人がいる。嫌がられることでしか、自己表現できない人がいる。その為にコメントは全て載せる方式を止めざる得なかった。本当はすべてのコメントを掲載するようにしたいのだが。

 他人を批判する以上自分を明らかにしなければならない。このブログも実名で書いているのはその意味である。批判する対象は権力である。公務員は国民に対して、権力者である。ところが公務員には権力である自覚がない人が多数である。

 国民が権力を監視しなければ、権力は必ず腐敗する。今起きているコロナ自粛においても、権力は国民の権利を制限している。これが正しい制限であるか、間違った制限であるかは、国民が監視しなければならない。

 ところが国の方針を決める科学的な助言を行う検討委員会に議事録がないという事である。これを国民は許してはならない。権力批判をしなければならない。こうした権利は国民にはある。その時にアベ氏を名指しで批判することが起こる。しかし、これは個人の誹謗ではない。国民は批判しなければならない義務がある。

 当然のことだが、議事録など残すべきではないという意見もある。それを最終的に判断するのは、選挙における有権者の判断である。その為には、国会は議事録を残さない理由を分かるように議論する義務がある。

 なぜなら、国民の権利を制限する自粛要請をアベ政権は行ったのだ。それが正しいことであったかどうかは、必ず後に検証しなければならない。それは安倍政権が今正しい政策を行うための歯止めでもある。議事録がなければ、検証されないという事になる。

 教育の権利を制限したことは正しい判断であったのかどうか検証すべきだ。私には科学的な理由のない、休校があったと思う。

 きゃりーぱみゅぱみゅさんが黒川検事問題の政府対応を批判したら、これを安倍個人批判だとして再批判が起きたという。この違いが分からないのかと言いたい。アべ氏は総理大臣で国民には批判する権利がある。権利以上に義務があると言いたい。総理大臣は国民に対して権力者のだ。

 権力は批判されなければ、腐敗する。国民が批判できない国家を見てみればすぐわかることだ。ああいう国に日本はなりたくないだろう。常に国民は批判的な目で見ている義務がある。それが民主主義国家を作り上げるための要件である。国民には多様な意見が存在するのだから、権力が批判されるのは当然のことである。それが嫌なのであれば、総理大臣にならなければいいだけのことだ。

 原発事故の時も議事録が残されていない。その為に今は半分が闇の中に埋もれようとしている。次に同じことが行らないためには、正しい検証が行わなければならない。ところが、権力は検証されたくないから、議事録を残さないようにしている。しかも、残された公文書すら、改ざんを行うのだ。佐川局長を調べる必要があるだろう。

 菅官房長官はなんと、コロナ専門家会議で自由な発言をしていただくために、議事録を残さないことにしたと、記者会見で話した。全く国民を馬鹿にした信じがたい発言だ。国民の命運を担う会議に出ている人が、議事録を残すのでは発言を控える人なのだ。それほど科学的な知見に自信のない人の集まりではもう日本は終わりだ。

 科学者としての信念と生命をかけて、発言してもらえる人でなけば、委員の資格がない。議事録を残されるなら、本音が言えないような生半可な会議では、国民の生命は危険な世界に入ってゆく。こうしたぬるま湯体質から、アベのマスクの郵送が起きたのだ。

 アベ政権は非常事態に伴い、憲法改正が必要だと主張した。一体現行憲法の何処が問題で、どうした政策が出来なかったのか。これを是非とも検証しなければならない。上っ面の言葉でこんな重要な案件を総理大臣に軽々しく発言させてはならない。

 安倍氏の本音は何でもかんでも憲法改正をすることが手柄だと思い込んでいるに過ぎない。それは憲法9条の改憲をしたいからだ。それならば、堂々とそのことを言えばいいのだ。非常事態にかこつけて、国民を誘導する態度は許されることではない。

 このように書いたのは安倍氏の批判である。これは誹謗中傷ではない。権力者たるアベ氏の考えによっては、私の権利に影響が及ぶからである。しかし、女子プロレスラー個人を批判するのは到底許されることではない。人にはさまざまなものの考え方がある。すべてのことには賛成、反対の意見があるものだ。

 女子プロレスラーの方もファーンの人で支持する人もいれば、腹を立てた人もいるだろう。腹を立てた人がその個人を批判するのはあってはならない事なのだ。もしどうしてもおかしいと思うのであれば、フジテレビの制作らしいから、フジテレビを抗議すればいい。テレビ放送局には社会的な責任がある。反社会的なものは放送できない。
 
 SNSでの批判を犯罪と位置付けて、対処しなければならない。曖昧に見過ごすから、匿名の隠れ蓑で誹謗中傷をする輩が後を絶たないのだ。この機会にこうした嫌らしい中傷を根絶すべきだ。陰でこそこそいう社会は最低の社会だ。と書きながら、SNSというものはやったことがないので、実態は知らないのだが。私はフェースブックというものでさえ、気持ち悪くて使えない。

 一方で著名人の政府批判にに対して、政府支持者から批判が出ている。ローラさんが辺野古米軍基地建設を批判したら、企業やテレビ局に対してコマーシャルを制限しろと発言した自民党議員がいた。こうした圧力ですでに時代は動き始めているのが現実である。この動きをどう押しとどめるかは、国民の批判の目にかかっている。

 権力に抵抗できるのは国民の批判的精神である。あの事件以来ローラさんに好感を持っている。ローラさんのコマーシャル商品を買おうと思うが、化粧品では困るが。誰でもが権力批判をできる国にならなければ、民主主義が成立していると言えない。民主主義はそうした思いの集積なのだ。様々な意見は存在する。違いを認めて、その上で公正な選挙で、多数決で最終決定する。これが健全な社会だ。

 そのためには、ネット投票を出来る社会にまで、ネット環境を整備してゆかなければならない。感染症が蔓延したとしても、公正な選挙が出来る体制を整備してゆく必要がある。国会の解散が必要な時に、感染症蔓延で出来ないとしたら民主主義は成立しない。

 日本はこうしたウエッブ社会化が相当に遅れている。完全に後進国になっていることが、コロナ感染で良く分かった。何としても、これは政府の責任として、取り組まなければならない。地方の時代を作る為にもウエッブ整備を国が取り組んでほしい。


 

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