麻雀賭博:黒川基準に見る日本の賭博許容度

   



 パチンコ屋さんへの自粛要請で、どうしてもパチンコをせずにはいられない人の実態がよく見えた。大阪で自粛しないパチンコ屋の名前を公表したところ、むしろ人が集まっていると言われた。何故こんなことになるかと言えば、ギャンブル依存症だからだ。コロナ感染の恐怖はあるとしても、パチンコが止められない人はギャンブル依存症の可能性が高い。

 しかし、大阪で出た結果を見ると、いくらパチンコ屋に行っても感染拡大は起きないということが実際である。感染の実際と言うことが見えてくる。この場合強制的に閉じさせられたパチンコ屋は訴訟を起こすのではないだろうか。根拠のない行き過ぎた自粛要請には法律の裏付けがない。パチンコ議連はこう言うとき黙っているのだろうか。

 ピンボール依存症になったことがある。ピンボールの何が面白いというわけでもない。落ちてきた球を跳ね返すだけの遊びだ。お金が戻ってくるわけでもない。にもかかわらずやらないでは居られなくなったのだ。フランスに居た頃の失語症になった頃のことだ。ストレスが強くて、ピンボールに息抜きで向かったのだろう。本当にくだらない。くだらないがピンボールがなければもっと怖いことになっていた。

 実は恥ずかしながら、将棋依存症の時代もある。将棋道場に行かないでは居られなくなるのだ。千駄ヶ谷にある日本将棋連盟の道場にもよく行った。それで将棋がいくらか強くなったのだが、全くくだらない。くだらなくても、止められないものなのだ。

 自分のことからして、ギャンブル依存症の人の気持ちはある程度理解できる。自分が依存症の体質だから、パチンコというものもを含めて、ギャンブルに類するものは、一切さけてきた。触れないようにしてきた。触れたら抜けられないことが分っていたからだ。絵が好きだったからおかしなことにならないですんだのかもしれない。依存症が問題なのではなく、依存症が増化せざるえない社会の何かがおかしいのだ。

 この機会にパチンコ屋をギャンブルと位置づけるべきだ。パチンコが問題なのは生活破綻が始まるからだ。子供だってパチンコがギャンブルだと言うことを知っている。間に景品を介在させているだけのインチキシステムである。こんなことがいつまでも続く日本という国にあきれてしまう。

 今度法務省の見解の基準は月に2回。1回2万円は賭博に当たらないということになった。朝日・産経新聞が支持する黒川基準である。日本が賭博に対して、全く歯止めがない社会であることがわかる。賭博が犯罪ではないと法務省が明確にしてしまった。

 小さなギャンブルなら法律でも許容範囲というのが、パチンコのインチキシステムの言い訳である。ところが小さいどころか、これで私の叔父はすべてを失った。親戚のものが、代わる代わる助けることになった。つくづくパチンコの怖さを知っている。

 石垣島にもパチンコ屋は4店舗あると新聞に出ていた。3店舗しか知らなかったので、まだ知らない石垣島が有るのだと思った。コロナで今まで知らなかったことが分かる。飲み屋もそうだ。飲み屋依存症があるのだ。アルコール依存症と近いのだろうが、その店に行かないと収まらない人が居る。

 そういう息抜きの何かが悪いというわけではない。息抜きは人間には必要だ。人間はそもそもどうしようも無いところがある。人ごとでは無く、自分事としてそう思う。だから、悪所の出入りにはそれなりの倫理的枠がある方が良い。黒川基準がまかり通ってはダメなのだ。

 何でも神経質に禁止したら、社会の活力が奪われる。パチンコは健全娯楽だと言う意見がある。その言葉通りならいいと思う。だからこそ、賭博の一形態として明確に位置づけるか。賭博的要素をなくすかのどちらかにしなければならない。賭博場ならば文教地区や住宅地域にはおけないことになる。気楽に行ける賭博場という今の状況が悪い。

 悪所がない方が良いとは思わない。悪所は悪所として、分かる形で位置づけでなければならない。これは風俗営業でも、ポルノ産業も同じである。ない方がいいのではなく、悪所としてやむなく存在が許される状態ぐらいが望ましい。そこには心理的にも、倫理的にもハードルがある方がいい。その方が悪所としての意味も高まる。つまり、社会的装置としての矛盾吸収なようなものなのだと思う。

 私がピンボールにはまったのは精神的なストレスである。眠らずに絵を描き続けていたのだ。不安だからである。絵描きになりたいの一心が昂じて病になったのだ。認められたい病である。生きることに焦ったのだ。人間にはやむえずそういうこともあると思う。もしピンボールが無ければ、もっと始末が悪かった可能性が高い。

 社会も正しい公明正大だけでは回らないと思う。どうしようもないものや、情けないことも多々ある。だからすべてを排除しない方がいい。排除しない方がいいからこそ、区分けは必要だと思う。コロナ流行のこの機会に、一度パチンコ依存症から抜け出てみるのもいい機会ではないかと思う。

 私が将棋を止められた理由ははっきりしている。渋谷にあった、渋谷将棋センターと言ったか、そこで相手が待ったをしたのだ。三段の人だったので三段にもなって待ったはおかしいだろうととがめた。ルールである。待ったは止めましょうと言ったのだが、元奨励会員の将棋センターの経営者はそのくらいのことを認められない方がおかしいと言う判断だった。それを機に将棋を止めることが出来た。あれ以来人と将棋を指すことはない。

 依存症であっても何かのきっかけで抜け出ることは可能だ。諦める必要は無い。日本の社会にはギャンブル依存症に対する、恐怖心が不足している。どれほど怖いものかが理解されていない。人生がボロボロになる。薬物中毒などと同じである。人によっては自己コントロールできる人も居る。そうでない人も居るのだ。

 何気ない当たり前の形で社会の中に置かれていて、住宅街にまで混在している。この実態が良くないと言うことだ。やらなくて良いものまで、安易な気持ちでギャンブルに巻き込まれて行く。悪所は悪所として存在した方がいい。

 日本のように、普通の社会感覚の中に紛れ込ませてしまうことが良くないのだと思う。きれい事だけで社会は出来ていない。誰だってどうしようも無いときはあるだろう。そういうときに吸収される場というものは必要だと思う。健全娯楽ではなく、不健全娯楽は社会にいらないわけではない。

 もちろん、検事長が賭け麻雀は言い訳ができない。法の番人が、わずかでも法律違反があれば、社会の公正が失われる。検事には普通の市民とは違う倫理規定がある。今回アベ政権によって賭博常習者向けの黒川基準ができたことで、世の中のグズグズが又一段とひどくなると言うことだ。

 パチンコ屋の賭博認定である。ごまかして一般社会に紛れ込んでいることをこの機会に明確化した方がいい。パチンコ議連と呼ばれる自民党の「時代に適した風営法を求める議員連盟」は賭博にすべきなのか。健全娯楽にすべきなのか。明確に打ち出すべきだろう。
  黒川氏が賭け麻雀で辞めされたが、随分軽い処分であった。賭博に甘い社会らしい決定を内閣が行ったと、法務大臣の森氏は記者会見で語っていた。ところが後になって、それでは法的にまずいと言うことで、内閣は追認したに変えた。安倍内閣はもうダメだろう。

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