なぜ、アベ政権の支持率が下がらないかの理由
アベ政権は繰返し、繰返し国民を愚弄してきた。上級国民らしい思い上がり政権としか思えない。これほど下層国民を踏みにじる政権が何故支持率を下げないのか不思議でならない。これはかつてない現象である。
アベ政権は最長の政権である。良い政権だから長いのでなく、最悪の政権であるにもかかわらず、随分と長い。この不思議がどうしても分からないできた。アベ氏に変わる人材が自民党に見当たらない。野党が頼りない。小選挙区制のためにアベにこびる議員だけになった。
様々にアベ政権が何故続くのか、政治分析が出されてきた。わたしも似たようなことを書いてきた。しかし、いまいちすっきりと分かった感じがしないでいる。分からないためにアベ政権を作り出している鵺の存在を感じてきた。
それでもすっきりしない理由の方は少し分かってきた。若い人が私ほどに政治に関心がないと言うことなのではないか。それとアベ政権がどうつながるのかはまだ分からない。政治に関心がないという以上に社会に関心がないという方がもっと正確かもしれない。多くの若い人の中に社会のことを考えたところで始まらないという見切りができたのではないか。これがアベ政権がいつまでも続いている理由ではないだろうか。
我々までの世代は社会は、構成する人間が努力をすればなんとかなると考えていた。あるいはできないとしても精一杯主張し努力することが、いくらかでも社会をよくすることになると考えていた。ところが社会はそういうことでは変わらなかった。
その証が1970年以降50年の歴史だ。頑張ったから、戦争が起きなかった。と言う人もいるが、若い人にはそうは見えないと言うことだろう。戦争は抑止できたというより、戦争の性格が変わったと言うことだと思う。
反アベも、親アベも結局の所一緒である。一緒というのは政治的姿勢は対立である。しかし、アベ政権が何かしてきたわけでもない。ただ押し流されているに過ぎない。自民党だけでは格好がつかないので、一応共産党もある状態とでもいえばいいのか。この50年本当の意味で政治などなかったのだ。特にアベ政権には国会というものもない。
国会は形としては開かれてはいるが、何の意味もないと言うことが続いている。これでは野党が政権を取っても同じこととしかみえない。悪夢の民主党時代というのは確かにその通りなのだ。そのように分析するアベ氏の自民党の、この50年間の政治全体で何か政治と言うことはあったのかとすら思う。あったのだろうが、政治と言うよりもう少し違うところで日本は動かされてきた。
何故国会が無意味であるのかと言えば、政治そのものが無意味になっているからだ。民主主義が形骸化したと言うことでもある。民主主義は志である。志を失えば、民主主義は失われる。志のない行政と官僚だけで国が運営されている状態が続いている。自民党もいなければ、共産党もいない。国会議員はいなくてもいてもほぼ変わらないという感覚。
具体的な政治というのは税金の集め方と、使い方だとすると。消費税は誰が考えて、誰が決めたのだろうか。世界の流れにしたがったと言うことぐらいで、消費税を行う政治的理由、つまり日本の方角は議論されていない。仕方がないぐらいしか言われた気がしない。
この間唯一政治と言える動きはアベ政権の憲法改定の主張だろう。憲法を変えて明治帝国主義国家に戻すというのは確かに政治の動きである。しかし、この提案は政治が行われていない中、現実離れしている。これは関係ないとは次の若い人でも言えないことなのだが、判断のしようがないのだろう。
軍国主義になれば、軍隊に行かなければならないかもしれない。これこそ政治が人の生き方に影響すると言うことだろう。本当のところは今日の朝食だって、政治の結果が回り回ってきたものだ。ただし、そう言うことは感じられない飽食の時代だ。
たしかに、国会というものを空洞化させた主役がアベ長期政権である。桜を見る会の姿はまさにその結果である。前夜ANAホテルで接待を受けたアベ後援会一同様が新宿御苑に場を移して、タレントやスポーツ選手を国の予算で招き歓待を受けたのだ。証拠があるなしにかかわらず、そんなものだ。何が悪いんだというのが今の日本の社会なのだ。
もちろん年寄は違う。とんでもないといきり立っている。あるいはそれぐらい何が悪いんだと居直っている。40歳以下の人の意識は勝手にやってください、どうせ関係ないでしょ。こんな風になっている。それどころではないのだ。感ずるか感じないかは別にして、この先資本主義が崩壊して行く予感の中に生きている。あまりの深刻さに、思考が停止せざるえないのではないだろうか。その予感に気づけば、就職どころではなくなる。
そうすると、どうも資本主義をなんとしても維持しようという姿勢が、アベ政権が支持され続ける理由だ。だから、アベ政権のやることは既得権益を守ることに専念している。もちろん、誰がどうやっても資本主義は終わらざるえない。ここにアベ政権が続く理由があるらしい。それは10年後か、20年後かははっきりしないが、そうした予兆のようなものは次々に現われている。
しかもこの現実には向かい合うことすらできない矛盾に満ちた現実である。可能なことは逃げることだけだ。ひどいことになったものだ。文明が転換しようとしているのだ。私が自給自足を考えたのは結局のところ、70年代に社会の限界を見たからだ。
あの時代をなかったことにして生きることができなかったからだ。逃れようとして絵を描こうとしたのかもしれない。あるいは絵を描くことで政治ではない解決があると信じたかったからかもしれない。いずれにしてもついに資本主義が限界を迎えはじめた時代を見ている。
これがアベ政権が支持率が下がらない原因である。もう政治の力などではどうしようもないからだ。それが誰がやっても一緒という無気力を生み出している。資本主義を継続させるために、修正して新資本主義のような調整が行われようとした。ところがそうした修正主義ではどうにも収まらない。
国家資本主義の登場。一国資本主義の登場。いよいよ寡占化が強まっている。弱いものを食い尽くそうと資本は行き場を求めている。私などにはこの緊急事態を経済学的に説明する能力はない。しかし、感覚としてはひしひしと資本主義の終わる匂いを嗅いでいる。
この文明の転換期を自分はもう70歳で迎えたのである。戦うことすらやれた気がしていない。正面から戦うことは避けたのだ。正面から戦ったとしても無駄だと分からされたのだ。これも政治的無関心であるが、新しい生き方を身をもって示すことも意味がある。
それで自給自足を始めた。世の中どうなろうとも絵を描いて行ける道を見つけた。絵に自分のすべてを表現しようと考えた。他にできることもない。そこに安心立命を見つける以外にない。これも敗北主義と言うことだろう。
しかし、これは文明が変わるのだから、全員が敗北するのだ。敗北をうまくやるのは難しい。いささか抵抗しているのがアベ政権だとしても結局は敗北するのだ。上手な敗北か、ひどい敗北かの違いはたいしたことではないのかもしれないが、阿倍の負け方ではひどいことになる。
沖縄に自衛隊基地を作っている。米軍基地の軽減の代わりに、自衛隊基地を配備している。こんなことは無意味どころかより困難を増すだけのことだ。退却戦では捨て石にされる地域が出てくるのだ。
こんなことを書けば、ひどい妄想と読めるに違いない。別段正しさを説得できるとも思わないし、人それぞれでかまわないことだ。そんな馬鹿なと考えて、脳天気に極楽トンボに暮らせばいいだろう。私は緊急事態のサイレンを鳴らすだけだ。
そのサイレンを聞きつけて、山の中にでも逃げた方がいいかもと思えば、山の中での自給の暮らし方はお伝えしたい。一応2冊の本に養鶏と田んぼのことは書いた。文明が変わろうと可能な自給の方法である。一切のエネルギーがなくなってもできる自給の方法である。これから生き残るためには自給の技術ほど重要なものはない。
実践に基づく自給方法は誰にでもできるように説明できた。あとは私の思想を表す絵が描ければと言うことだ。絵は自給に生きる人の応援ポスターだ。これにはまだ10年は少なくともかかりそうだ。一年が経とうとしている。この絵を見ていれば、自給生活の元気が出るという絵が描きたいものだ。
転換期に生きると言うことは、難しいことだ。疲れてしまうかもしれない。一人では乗り切れないかもしれない。だから、同じ志の仲間を見つけることだ。脱出して生きようと言うことだから、仲間は難しい。しかし、自給が一人でできるようになった人は次の人につないで欲しいと願っている。