裁判員制度での死刑判決は7回も高裁で覆された。
裁判員制度は止めるべきだ。裁判は専門の司法関係者で行うべきだ。日本独自のやり方でいいと思う。裁判員制度は作られるときから反対をしてきた。その後もいいことなどなにもない。むしろ、裁判の悪いところが表現されている。
裁判員は一審の地方裁判所のみで行われる。結局、裁判員の意見は表明されはするが、決定的なものではない。お茶を濁しているようにしかみえない。裁判員制度は民主主義制度を育てるものだとなっている。日本全体が志を失い、民主主義が捨てられて行く中、形式的な裁判員制度は意味をなしていない。
民主主義は地方議会で一番反映されなければならない。ところがその地方の議会では、自治基本条例の廃棄案が上程されるような事態である。民主主義は理想主義であり、つねに理想の民主的自治の実現を模索して行くなかでのみ成立する。現状はそうした戦後社会が目指した民主主義社会の理想は挫折したと思わざるえない。
議会が代議員制度としてあるのだから、直接民主主義的な自治基本条例などいらないという議会になっている。議員に任せておけ、住民は黙ってオレ。と言うことになり始めている。それで不都合もないから、若い人達から政治への関心を失い始めている。
そういう政治状況が反映しているのが裁判でもある。沖縄の米軍基地の裁判を見ていると、政府が米軍基地の建設を進める。それに対して住民は投票で反対を示している。そして、地方政府は国に対して訴訟をしている。ところが、話はかみ合わず、話し合いもできない状況になっている。こうしたときに裁判所は、国の代弁者にしかならない。
こんな司法を信頼できるかといえば、むりだろう。現在、石垣市では三分の1の住民の署名を持って、自衛隊基地の是非の住民投票をしたいと要求している。ところが市長は、自衛隊は国の専権事項だから、住民は口を挟めないとして住民投票を拒否している。
そのために市長には自治基本条例に基づき投票を行う義務があるとして訴訟を起こした。ところが、中々裁判が進まない間に、市長と市議会は市有地を自衛隊に売ってしまった。そして建設工事が進められている。
こんな状況は法治国家とは言えない。裁判所も何故いつまでも裁判を長引かせているのか。全く裁判が機能していない。こんな状況の司法の状況で、裁判員制度と言われて、民主主義の推進と言われても、全く馬鹿馬鹿しくなる。
裁判員制度で裁判が早くなると言われたが相変わらず時間がかかり、裁判員に負担が大きくなっている。これではやり手がないのは当たり前だ。いくら国民の義務だと言われても、自分が判事をさせてもらえるわけでもない。お飾りの参加である。
裁判員制度での死刑判決は7回高裁で覆されたという。これでは裁判員を任された人は、7回も不当死刑判決をしたことになる。これは裁判員をされた人にとってつらいことではないか。耐えがたいことではないか。苦渋の選択で死刑を選択しても、覆されるのでは、命の選択をした身になれば辛すぎる。
裁判員制度は一日も早く止めなくてはならない。何のために一般の市民が裁判員を行っているのか私には訳が分からない。裁判員の判決は尊重されるはずではなかったのか。何も死刑にした方がいいというのではない。死刑などしない方がいいに決まっている。
裁判員制度は司法関係者の社会参加である。世間から無視されたくないので、裁判という物を社会的な物にしようとしているのでは無いか。社会は見たくない物は見ない。君子は厨房を遠ざく。これを受け入れた上で公正さを専門家として探求するほかない。
それでも問題のある現行法の下、裁判員が素人ながらに一生懸命考えた末に出した結論である。それが7回も覆されたのだ。なんとも言えない、不愉快がある。それくらいなら裁判員に任せなければいいだろう。
死刑判決は重いものだ。それをあえて選択せざる得なかった裁判員の思いはどこに行くのだろうか。私がその立場であるなら、耐えがたいものを感じる。もちろん、引き受けることはないが。イヤだからと言うことを理由に拒否する権利はあるのだろうか。
裁判員制度ができて何か良いことはあったのだろうか。、2009(平成21)年5月21日、裁判員制度が始まった。この制度は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」とされている。
裁判員の死刑判決が7回も覆されていると言うことは、信頼を損なうと言うことだろう。死刑の判決を受けた被告は、大変な衝撃であろう。それが間違いだとされるのだ。7回もこんなことが起きて、裁判への国民の理解など少しも進んだとは思えない。
そもそも裁判員にくじで当たってしまった人がドンドン拒否するようになっている。私も拒否するつもりだ。偏向した判断をするに違いないからだ。死刑廃止を信条とする人はかなり多い。こういう人が裁判員になった場合どうなるのだろうか。今度は判決を覆して死刑ということになるのだろうか。
あるいは現行法に従い、自分の思想信条は捨てろと言うことになるのか。くじ引きというものは公平なようでそうでもない。偏りが出ることはあり得る。一般には世間の空気を反映する結果になるのだろう。裁判長は担当事件の報道は見ない聞かないでいる。裁判員にはそういう制限はない。世論の空気の影響は大きい。
死刑の可能性のあるような裁判はそもそも悲惨なものだ。許されがたい内容の犯罪だ。世間は大いに批判しなければならない。冷静に諸事情を勘案などしない。リンチ的な空気だって湧いてくる。
民主主義を育てるためには司法への住民参加が必要とされている。それが裁判員制度の根拠である。しかし、今のような形の司法参加が民主主義を育てているとは到底思えない。お茶を濁しているに過ぎない。司法関係者の意識と、住民の意識の乖離が目立つだけである。