親父の小言
「親父の小言」 浪江町大聖寺の住職青田暁仙
朝きげんよくしろ
恩は遠くからかえせ
人には馬鹿にされていろ
年忌法事をしろ
家業には精を出せ
働いて儲けて使え
ばくちは決して打つな
おおめしは食らうな
亭主はたてろ
初心は忘れるな
後始末はきちんとしろ
神仏はよく拝ませ
何事も身分相応にしろ
水は絶やさぬようにしろ
戸締りに気をつけろ
自らに過信するな
怪我と災いは恥と思え
袖の下はやるな貰うな
書物を多く読め
火は粗末にするな
難儀な人にはほどこせ
風吹きに遠出するな
人には貸してやれ
貧乏は苦にするな
借りては使うな
義理は欠かすな
大酒は飲むな
人の苦労は助けてやれ
年寄りはいたわれ
家内は笑って暮らせ
出掛けに文句を言うな
万事に気を配れ
泣きごとは言うな
女房は早く持て
人には腹を立てるな
産前産後は大切にしろ
不吉は言うべからず
病気はよくよく気をつけろ
飲み屋で相当に酔っぱらって居ても、便所に行くとしらふに戻ってしまう。もうあまり飲まないでおこうなど、もっともらしく思うものである。もちろん席に戻った途端に忘れてしまい。もう一杯となるのが常ではある。
家ではさして飲まないのだが、時に外で思い切って飲むことはある。若いころは良く二日酔いするほど飲んだが、今はかなり飲んでも、二日酔いはないのは何故だろう。先日上野で一人で入った飲み屋の便所に、おやじの小言というのが張り出してあった。
飲み屋の便所に、大酒は飲むな。など書いてあるのでつい全部を読んでしまった。あれこれ正しい指摘ではあるが、正しすぎて余計なお世話だ。それでもつい読んでしまう小言であった。
「火を瑣末にするな、」言葉が良い。これは、火事の心配のことではない。燃料を節約しろという事だ。昔の暮らしで大変なのは、生活の薪である。家のそばでとれればまだいいが、大抵は随分遠くから運んだのだ。二宮金次郎のように。
この飲み屋の文章が書かれたのは、原発事故で立ち入り禁止地区だった福島県浪江町。元のダッシュ村の近くである。大聖寺の住職青田暁仙が昭和三年、三十三歳の時に書いたものだそうだ。おやじの小言と言う位だから、余計な事ばかり書いてある。
田舎の寺で育ったものとして身につまされる。まるでおじいさんが言いそうなことばかりで、他人ごとではない。それはそれは貧乏でありながら、僧侶としての体裁だけは保たなければならない暮らし。
なにしろ、私の育った寺は、前住職がにっちもさっちも行かなくなり、自殺してしまい、無住になっていた寺である。その寺に頼まれて入った祖父は、才覚のある人で町役場に長年勤めて、何とか子供を育てた。
6人の子供が全員大学に行ったのだから、教育熱心でもあったのだろう。何しろ子供がそれぞれに大学に行くために、戦後の混乱期に相模原に畑を、新小岩に住宅を準備したと言う人である。
その相模原の開墾畑で、働き者の母の働きぶりに目を付けたのが、隣で開墾を始めた笹村の祖母である。畑を始めたのだが、全く出来ない都会者のわたしのお婆さんにあたるひとである。
山梨の山寺は檀家の御布施では当然暮らせない。ほぼ自給自足で暮らしていた。昭和30年代まで燃料も自給である。火を粗末にするなは、祖父の口癖のようなものだった。
上手に燃やせば薪の節約ができるというのだ。私はフロ焚きの担当だったから、薪集めから始めた。フロは半端なもしきでやれというのだ。いつも気をつけていて、風呂場の薪になりそうな木切れを集めていた。台所のかまどには入らないような木だ。
「人には馬鹿にされていろ」これはどうかと思う。つまり、腹の中で舌を出しておけば済む。というようなことが、どこか感じられる。馬鹿に成れというのではない。能ある鷹は爪を隠す、どこか率直でないことは情けないないか。
親父の小言だから、おかしなことがいくらでもある。そこがまた良いのだろう。そもそも僧侶は馬鹿にされてはならないとい立場だからやっかいで有る。この坊さんは33歳で馬鹿にされて、悔しかったに違いない。それで馬鹿にされていろという小言を発したのだろう。変に若年寄な坊さんである。
自分のことではなく、やはり教訓として偉そうに馬鹿にされていろと書いたのかもしれないが。人のことまで余計なお世話である。説教坊主のダメなところである。飲み屋の壁に張り出されるぐらいが、ちょうどいいのかもしれない。だとすると、この小言を便所に張り出した、飲み屋の親父の方がよほどの人物なのかもしれない。
「水は絶やさぬようにしろ」理に適っていてわかりやすいのだが、水をどうやって絶やさないようにできるというのだろうか。ここでの水は水道ではない。水は自然之理であって、人為でどうにでもなるものではない。要領よくやれという事か。水はどこにでも流れてゆく。
流れに任せろという意味なのだろうか。このお坊さんも自給自足で田んぼをやっていたのかもしれない。それなら意味はよくわかる。「風吹きに遠出をするな」もっともなところが良いが、そういう時こそ出かけなければならない用事があるのも人生である。