貧困自己責任論のおかしさ
100メートル10秒で走れないのは自己責任ではない。努力だけで、競争に勝利できないのが現実である。持っている能力は人それぞれのものである。特別の人以外に、100メートルは10秒では走れないのは当たり前だ。
大切なことはその人として、十二分に生きることではないか。その人の可能性の限界までゆくと言うことしかない。しかし、その限界はそれぞれのものである。100メートル20秒かもしれない。1分かもしれない。
一人一人が限界まで生きることの社会というものが理想の社会である。それならば、その人なりに努力している人が貧困で良いわけがない。結果としてはどれだけ努力したからと言って、競争に負ける人は居る。貧困は自己責任ではない。
努力を精一杯した人が負けた結果、貧困に陥るとしたら、それは間違った社会だ。努力に応じて普通に暮らせる社会にならなければ、努力というものが行われなくなる。100メートル20秒を限界とする人は、どうせ勝てないのだから努力しないという結果になる。
努力しなければ30秒かかるのかもしれない。それでは人間として生まれてきた意味が希薄になる。20秒まで頑張ってみようという気持ちになる社会の方が良い社会だろう。
そこに貧困自己責任論の間違えがある。確かにこういう風に考えると、努力を怠る人が現れる可能性がある。頑張れば、10秒で走れる人が、努力せず20秒で走り。十分でなく生きてしまう社会は良くない社会では無いか。
人間を信頼できないというのが、資本主義社会なのだ。人間はずるをして、甘い汁を吸うと見ている。人間は常ににんじんをぶら下げておかなければ、頑張らないと考えているのだ。人間はそんなものでは無い。誰だって一度限りの命を充分に生きたいはずだ。
人間は他の動物に比べても、いろいろ努力はする。しかし行うべき努力すら確かに怠る。苦しい努力は誰だって限界まではできない。しかし、好きなことの努力は結構頑張れる。大切なことは誰でも好きなことを見つけられる余裕のある社会ではないだろうか。
好きなことでは生きていけないから、いやいやつまらない仕事を我慢してやる。こういう人生であれば、頑張りも発揮されないだろう。好きなことを自由に追求できる社会が良い社会だ。そこに理想を置くことだ。
そうした社会に近づくためには、好きなことがいかに大切かと言うことを互いに認めることだろう。好きなことを自由に挑戦すること以上に大切なことはないと言うことを、社会が認めることだ。
好きなことがコンピュターゲームという若者も多数存在するだろう。好きなことを気ままにやらせたら、ゲームにはまるだけだと思うかもしれない。それはやらなければならないいやなことがあるからだ。本当に人間が解放されて、好きなことを探求すれば、ゲームに落ち込むような馬鹿ないことはない。