台湾疎開 松田良孝著 やいま文庫 

   

 石垣では石垣のことを書いた書物が驚くほどの数、出版されている。毎月新刊がある。山田書店に行くと地元関係の出版物が所狭しと並んでいる。またその本がどれも内容が深く、石垣の知識人というか、その奥行きの深さに感銘する。

 この書物文化を支えているのが、南山舎という出版社である。素晴らしい他に類を見ない良書を出している出版社だ。石垣に来る前から取り寄せて読んでいた。やいま文庫はその中核をなしているシリーズだと思う。今回取り上げてみたい本は「台湾疎開」琉球難民の1年11ヶ月という本だ。

  対馬丸米軍撃沈事件が子供達の疎開船だったことが知られている。沖縄の子供達を九州に疎開させる途中、輸送船対馬丸が潜水艦によって撃沈された。1484人の人が亡くなった。その半分以上が子供達だった。当時、石垣島では台湾への疎開が行われていた。

 「台湾疎開」の著者は地元新聞社「八重山毎日」の記者である。松田良孝氏である。新聞に連載したものを改めてまとめたものだ。まさに新聞社の責務である調査報道の事例である。素晴らしい新聞社があると言うことも、石垣の文化の高さを感じる。

 松田氏は念入りな調査をしている。学術調査書、公文書。そして八重山の台湾疎開体験者の聞き取り。台湾の現地で関わった方々の調査。幅広く調査がなされている。できる限り冷静な視点を失わない決意が感じられる。「視野は世界に視点は地域に」という、八重山毎日新聞の方針そのものである。

 第2次大戦の末期、沖縄全域に疎開が命令される。本島からは九州地方への疎開。八重山や宮古からは台湾へ疎開命令が行われる。連合国の沖縄上陸作戦への抵抗の邪魔になる、老人や子供を沖縄から取り除いておく軍事作戦。全く無謀な作戦としか思えない。ここでの命令は命令と言っても良いのだが、通達という形のようだ。

 石垣島には台湾からの移住者も多かった。台湾に移住している石垣出身者も多かった。そうした場合は縁故疎開が進められる。縁故を持たない人には子供とその保護者というような小集団を作り、台湾へ送り出す。東京の子供達の集団疎開とは少し違う。台湾では様々な施設を収容し、そこに仮住まいをさせる。

 沖縄を日本国がどういう場所と考えていたかがうかがえる軍事作戦である。沖縄の犠牲で本土への攻撃を遅らせる焦土作戦を考えたのではないか。果たして日本軍は九州を焦土作戦として同じように考える事ができただろうか。

 渡航費用や生活費は国が補償するからと言うことで、強引に進める。実際には台湾での生活費はすぐに途絶えた。行政が取り仕切り、軍による強制ではないようだ。しかし、様々な状況的圧力で、疎開せざる得ない状況になり、沖縄全体で1万3000人、石垣からは3000人が疎開して行った。ここでの強制の姿は従軍慰安婦問題と似たようなものが感じられる。

 九州へ行く子供も、台湾へ行く子供も、案外楽しみにしていたような様子がある。状況をわかららず、台湾という都会に憧れる子供達。そのことと、国の方針である疎開とは別問題である。子供が喜んでいるから、許されるというようなことでは無い。これはやはり棄民の一種である。

 日本軍は米軍が石垣島に上陸するものと想定していた。石垣に残越された石垣の住民は軍に役立つとされた青年たちである。石垣に残った人たちも、於茂登岳周辺の山間部に強制移住させられる。農地は強制収容され飛行場に作り直されて行く。そして、山間部の生活と、栄養不足でマラリヤの感染に陥り、3千600人の人命が失われることになる。

 行くも地獄、残るも地獄とはまさにこの事態である。台湾にはどのようにして行くことになったか。そしてどうやってたどり着いたか。そして、台湾での生活。そして日本が降伏し、石垣への引き上げる苦難。この状況が調べ上げられ書かれている。

 日本帝国主義国家というものの実相がよく現われていると思う。国は戦時体制下、どうやって国民を犠牲にしたのかである。国は戦後も移民奨励という形で、余る国民を棄民して行く。民主主義国家といえども、国は常に国家のためには国民を犠牲にして省みないものなのかもしれない。お国のためという言葉はいつも気をつける必要がある。

 敗戦後取り残された、疎開者がどうやって石垣に戻ることができたのかは、息をのむような場面の連続である。国が統治能力を失い、一切が民間の努力と、台湾側の支援とで、苦難を奇跡的に乗り越えるのだ。台湾で医師をされていた方が、大きな力になってくれたようだ。

 宮古島からの疎開が一番多かったそうだが、戦争中宮古の町長だった石原氏は、戦後すぐに町長を辞め台湾に渡り、疎開者の引き上げに私財を投げ打ち努力をする。疎開を進めた責任者として身の処しかたである。

 台湾宜蘭県イーランケン南方澳ナンファンアオという港がある。与那国島から、111キロの日本に一番近い台湾の港である。戦前には日々行き来する船があった港だ。石垣関係の引揚者たちはここ集結し、石垣に戻ることを待つ。宮古島からの疎開者は基龍港に集結する。石垣から、台湾に戻るものも多く、その際は帰り船に乗ることになる。

 近いうちにナンファンアオに行ってみる。八重山の人が集まって暮らしていた港。今では当時のものは何もないそうだが、それでも台湾に作られた港を見てみたい。石垣島との交流拠点だった港を見てみたい。
 そして、日本の国境というものを実感してみたい。この港が八重山からの台湾への窓口だった時代を想像してみたいと思う。手助けしてくれた台湾の恩人たちへのお礼の気持もある。

 「台湾疎開」 松田良孝著 やいま文庫 良い本である。

 

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