持続可能な集まりの作り方
国家がとんでもない方角に動き始めているようで不安になる。それは日本だけのことではなく、世界中がつば競り合いでおかしなことになり始めている。その背景にあるものは、資本主義経済が煮詰まってきたという事なのだろう。人間の能力を引き出すためには、競争主義を大切だとしきた資本主義。その結果、社会の傾向として拝金主義を肯定するようになってしまった。政府が金儲けのためには、カジノ場を誘致建設しようという事態である。これは人間らしい暮らしという事から考えれば、とんでもないことに進んでいる。こういう状態のなかでどうすれば、まともな暮らしが出来るのかそれぞれが考えないと、自分の生き方まで巻き込まれることになる。つぎの時代を担う若い人たちのこの先の社会は極めてつらいものになりそうだ。この悪い時代の中で、自分の自由と最低限の生活をどうすれば維持できるか、自分なりに考えなければならない。次の世代の良い生き方など分からない事なのだが、ごく私的体験で言えば、暮らしの実践の中で探るものではないか。自分という命の原点に向って生きてみるほかない。その一つの探り方が、地場・旬・自給の暮らしだとおもう。地域に根差す暮らし。化石燃料を使わない暮らし。自分の食べ物を自給する暮らし。
30代後半に山北の奥の山の中で自給生活を始めた。シャベル1本で、人間は自分の食糧を確保できるのかのやってみた。5年間かかったができた。1日2時間自分の食糧のために働けば、食糧は確保できる。自分の力だけで、人間は生きて行ける。むやみな競争に巻き込まれることなく、自由に生きることが可能だという事を、身体が自覚した。この自給生活の実践こそが重要なカギだと考えるようになった。競争主義の世の中から、距離を置いて生きるためのカギは、自分の力だけで生きることが可能だという肌感覚だと思った。もちろん、シャベルだって自給したものではない。完全な自由などと大げさなことは言えない。しかし、自分が生きてゆく食糧を自分の手で作れるという事は、大きな包み込む安心立命があった。絵を描いて生きて行けるという事だ。競争に勝利して、売れる絵というものを追わなくともよい。自分の絵というものに向かい合い描いてゆく。死ぬまで絵を描くことが出来るという事になる。これが私の自由の確立であった。その方が、自分の生き方らしいではないか。それからは一切個展というものはやらないできた。
ただのスギ林から田んぼを作るといっても、田んぼの作り方の本などない。試行錯誤の発想が出来る柔軟な、百姓の手入れの技術というものがいかに重要かという事も身にしみてわかった。この百姓の手入れ技術の中に、持続可能な仲間の意味が存在する。人間は自由でなければならない。義務的なものはわずかでもあってはならない。やりたいことをやりたいようにやれるのでなければ意味がない。その意味で一人は良い。食べるものを作ることができなければ、人は一人で飢え死にする事がはっきりとする。ここに自給の技術がある。これは共有すべき生きてゆく技術だ。江戸時代にその技術は深まり、完成をした。しかし、近代農業技術の登場で失われてしまった。田んぼをトラックターを使わないで、耕作するとなった途端、江戸時代に確立した伝統的技術は見つからない事になる。自然養鶏もそうだったのだが、工業的技術の登場によって、伝統技術は軽んじられ、時には蔑まれて失われてしまった。他の草取りをしていれば、あのバカ百姓は除草剤も知らないよ。という調子である。
一人でやるのはとても気分が良い。達成感でいい気分になれる。誰にも気兼ねが要らない。失敗しても誰れも気にすることはない。このブログもそうだが、公開しないでやっていれば、誰に何も言われることもない。しかし、批判もされないという事は、おかしなことになっているのに気づかない可能性も高い。一人で出来るようになったならば、その技術を公開して、これから始める人にその技術を伝える必要があるのではないか。と考えた。人に伝えるという事で、その技術が本物になってゆく。人とかかわるという事は、他人の為という事ではない。あくまで自分の向上の為である。これは競争ではなく、協働するための切磋琢磨だ。人間は人とかかわる時の方が、力が出るようだ。間違っても自分が人の為になるからなどと考えない方が良い。あくまで自分の力を十二分に発揮するためには、他者とかかわる必要があると考えている。絵もそうだ。一人で描いて居るのは危険だ。そうしてダメになっていった人を幾人も見ている。やはり、仲間は自分の為に必要なのだ。絵を発表するという事はそういう事だと思う。どんな分野でも、一人で出来ることには限界があると思う。かかわれないようなひどい世の中になったとしても、良い仲間と、良い連携を取ることは重要だと思う。