生命の満る空間
崎枝の集落の入り口にある田んぼ。カンムリワシが来る田んぼである。この奥に湧水があり、その水で田んぼをしている。田植えが進んでいる。この日は中央のまだ田植えの終わっていない田んぼの準備をされていた。こんな当たり前の田んぼがもう日本には数少なくなってきた。あと10年したら、保存されているところ以外はほぼなくなるだろう。こうした田んぼの尊さを知ってもらいたい。
石垣の空間は生命の力があふれて居る。植物の繁茂する姿は緑の魔境である。その為に祈りの場を作るためには、何もない空白を作らなければならなかったのではないか。圧倒し覆いつくしてくる自然、すべてにアミニズム的に魂が宿っている。それは怖い、恐ろしいもの。周りから迫る自然の圧力を取り除かなければ、人間の暮らしの願いを表明することができない。人間を取り巻く自然の力を結界を持って遮らないとならなかったのではないか。清浄な場所を作り出す。何かの神に祈るのではなく、自然全体を祈りの対象にする。周りにある自然を突き抜けた、超えた宇宙と直接につながるような願い。ものに宿る魂を感じる。例えば石を置きそれに神を宿る場の印とする畏れの感覚。そして、自然を畏れ敬い、願いを祈る。八重山の御嶽には「いび」という祈りの場がある。
いびには炉だけ置かれるという。炉であるということは、燃やして自然神に対しての人が暮らしていますよという信号。煙。何かへの祈りの信号。それは田んぼも同じ思いがこもっているのだと思う。自然という犯してはならないものを、田んぼとして利用させてもらうと言う畏れ。人が手入れをすることで初めて生まれる田んぼという生産の場。神田。自然を取り払うことの、怖さ。こういうものが石垣の田んぼにはある。私にはそう感じられる。それぐらい、田んぼに迫ってくる野生の緑が息づいている。田んぼは光輝き、大きな鏡になる。この鏡は神に対する印でもある。緑の魔境から、切り開かれた大きな人の暮らしの印である。この田んぼが自然の力に対して、許されて作ることの感謝。生きている。生かされているという感謝。ここに祈りがこもる。
この祈りの田んぼというものを描きたい。私が祈りを持つということが前提であろう。祈りがなければ見えてくるはずがない。人の暮らしの折り込まれ方である。物を作るということは、命を育てるということである。豊かな実りをいただくということである。何一つおろそかにできるものがない。有難くいただくという、自然への感謝が満ち溢れていなければならない。コンクリートで固めた、区画整理された田んぼが絵にならないのは、形が自然に対して異様なだけではない。作ったお米が経済的合理性だけを目指しているからだ。その醜さのようなものが現れてくる。自然を冒涜するような心の動きが現れている。確かにそうした田んぼの方が、経済性だけで考えればいいのだろう。こんな考えであれば、アンパルは埋め立てられ、大型の田んぼが作られることになる。それは自然の循環を遮ることになる。そのことの是非は別にして、私は石垣に残る貴い田んぼを描きたいと思う。そんな絵の意味は絵を見る人にはどうでもいいことかもしれないが、私が見えるようになれば、絵も変わるはずだ。
絵を描く気持ちは、田んぼの美しさだけだ。私という人間の美しいが、本当のものであるかどうかである。私の眼が何を見ているかである。少なくとも私は私をごまかすことはできない。田んぼという神聖を見ることができるかであろうか。人為と自然との折り合いの姿が田んぼにあるだろうか。人為の最善の形を小さな自給の田んぼに見ている。人間は生かしていただいている。私の絵を描く方角は定まってきたようだ。ただ、繰り返す描くほかないと思っている。70歳を過ぎての私がこの後衰退してゆくのか。深まることができるのかはわからないことだ。もし本当の絵が描けるところまで行けるとしたら、この後の制作の仕方なのだろう。あらゆる前提を捨てて、ただ美しいと感じる場を描いてみる。今こうして、描きたいときにかけるということの幸せは、感謝しあじ合わなければならない。