横綱鶴竜の言葉から絵を教えられた。
アベマテレビというもので、相撲を見る。今大阪場所が行われている。なんといっても今場所は貴景勝の大関とりの場所である。昔から大関とりが一番面白いといわれている。だらが優勝をだれがするかというようなことより、大関に上がれるかどうかが盛り上がる。大関になれば、力士としてなり遂げたということになる。大関になるためには関脇で3場所優秀な成績を収めなければならない。ところがこれが難しい、めったな力士にはできないことなのだ。大関になったとしても三場所連続で10勝以上の星の力士はめったにいない。いたとすれば横綱になる力士だ。横綱は大相撲300年で72名である。貴景勝は5日目で3勝2敗となってしまった。大阪場所で大関になるためには厳しい星である。幕下力士の有望力士を見るのが通だそうだ。この力士は関取にはなるとか。この力士は幕内までは行くとか、相撲を見るとわかるらしい。
アベマテレビで横綱鶴竜がインタビューに答えていた。この言葉には感銘を受けた。さすが横綱である。「相撲で一番大切なことは基礎的なけいこを継続することだ。」基礎的なけいことは、しこを踏んだり、鉄砲をしたり、また割をしたり、すり足をしたり、することだ。申し合いをすることではない。この基礎的なけいこを続けることはつらいそうだ。つまらないそうだ。それでもそのつまらないことを継続することが一番大切だと話した。同じことを白鳳も言っている。横綱になる人はつまらないことを継続できるかなのだと語る。しばらく前、一回目の大関とりに失敗した力士に小結御嶽海という力士がいる。この力士は運動神経が抜群である。ところが稽古嫌いと言われている。もう少し稽古をすれば、間違いなく大関だといわれている。この辺が相撲の面白いところで、稽古嫌いで才能だけで大関になった力士もいる。しかし、心技体3つがそろわないと横綱にはなれない。これは私の見てきた範囲では確かなことだと思う。白鳳でも、大鵬でも、千代の富士でも特別な才能がある上に、基礎の稽古もした人なのだ。
稽古がどういうものかと言えば、つまらない基礎的稽古とはたぶん人間の収容なのだろう。稽古を必要にやる理由はケガをしないということにつながる。御嶽海は強いのだけれど良いところでけがをしてしまった。この基礎的なけいこの積み上げがあれば、土俵での申し合いを本気で出来るようになるということらしい。鶴竜の言葉で感銘を受けた理由は、絵を描くうえで大事なことを教えられたと思ったからである。すぐ申し合いを始めてもダメだということ。まずはつまらない、素朴な基礎げいこを積み上げるということ。私の描き方は見ているものを描く。この繰り返しである。見ているものと、画面で描かれるものとの関係を見る。ここで申し合いをしてはだめだということ。ここで急いで成果を求めると、ついつい絵作りで問題を克服しようとしてしまう。相手に勝つだけを稽古は御嶽海もやるのだろう。御嶽海は要領がよいから、勝利のための手口は実に身に着けている。ところがそれだけでは何かの落とし穴が待っている、ということを話していた。
絵における基礎は、みることではないかと思っている。見ることはできる。しかし、絵を描く目で見るということは、なかなか難しい。この違いすら分からない。出来上がった良いといわれる絵の情報から、絵を描くということに陥りがちである。その方が早いし、受けもいい。受験には受かるし、公募展やコンクールでも賞が取れる。ところが成果を上げるための方法が身についてしまうと、自分に至る道が遠ざかる。それもできなかった私が言うのも変ではあるが。ここが絵を描くむずかしいところだ。評価を捨てることが難しい。評価を捨てると誰にも見向きもされない。これがつらい。ここを思いきることがなかなか難しい。何を見るかである。リンゴを見る。リンゴの何を見るか。おいしそうと思い、そう見る人もいる。美しい色のリンゴだと、色彩を見る人もいる。リンゴの形の絶妙なところを見る人もいる。リンゴと空間の関係を見る人もいる。リンゴの動きを見ようとする人もいる。リンゴという存在を見ようとする人もいる。こうして自分は何を見るのかということが基礎的なけいこなのだろう。私の眼が普通のものを見ているとすれば、その普通がどのようなものであるか、見る稽古をしなければならない。ゴッホの絵を描く眼には麦畑が揺れ動いていたのだ。それはあの強い線で、揺れながら描くしかなかった。