秋篠宮発言の衝撃

   

秋篠宮発言には驚いた。象徴天皇についてもそうであった。国民が天皇の存在にたいして議論を怠ってきた。まさか皇室の人が安倍政権批判とは。またそれに対する、あの菅官房長官の木で鼻を括る発言は、許されるものであろうか。皇室の人とはいえ人間である。自分たちにかかわりのあることに対して、意見があるのは当然のことだ。「大嘗祭は天皇家としての宗教的な行事である。」ごく当たり前の発言が何故無視されなければならないのだろうか。我が家の葬式が特殊な宗教の行事なので、それを公費で大々的に取り上げることにした。公的行事として取り扱わせてもらう。と言われて、それは少し違うのではというのは、どこの家でも当たり前のことだ。大嘗祭が宗教的行事であるという事を当事者が言っているのだ。それを尊重しないというアベ政権は天皇制をどのように扱うつもりなのだろうか。江戸時代の天皇家であれば、当たり前にそうだったのだ。江戸時代の天皇家は裕福というほどではなかった。徳川幕府は天皇家を尊重をし、権力から遠ざけた。天皇家は幕府に対し、その文化と宗教性をもって立場を堅持した。

明治政府が日本帝国を作るために、天皇家を持ち出して来て利用したのだ。明治政府自体は革命政権であるから、幕府に対抗するために錦の御旗を必要としたに過ぎない。明治政府という新興勢力が天皇を権威として、その権力の正当性を主張したのだ。その為に、大嘗祭など様々な皇室行事が、国家的なものとして大げさなものとして執り行われるようになった。その明治の帝国主義の尻尾が取れないオタマジャクシなのだ。こうした発言を天皇家の人間に言わせること自体が間違っている。前回の大嘗祭自体を公費で賄ったことに疑義があるという、付帯意見の付いた判決もすでに出ている。象徴天皇を日本の良きものとするためには、権力が利用することが一番に良くないことになる。それは、国民全般がこの秋篠宮の発言を利用することも良くないという事である。平成天皇は生涯をかけて、象徴天皇の在り方を探ったと考えられる。「平和巡行を行う人。」「災害で苦しみにある人の鎮魂の役割。」「瑞穂の国日本の伝統文化を継承する人。」これらの役割は明治政府の考えた権威としての天皇とは大きく異なるものだ。

この平成天皇の探求した象徴天皇の意味を、否定的に考えているのがアベ政権である。もう一度政権の利用できる存在に天皇家をしたいのだ。大元帥として軍を取り仕切る立場に天皇の名前を掲げて、名目を利用できれば都合が良い位に考えている。幸い平成天皇は平和主義者であった。憲法の意味する象徴天皇を全うしようとした。いつの時代かにアベ的天皇が登場するかわからない。少なくとも政治的に影響のある自分の意思を表明してはならないという前提がある。共産党政権が出来て、天皇の名によって平和主義を押し付けるという事もあってはならない。権威を持って、ことを進めるという事が、民主主義に於いてはあってはならない事なのだ。だからこそ、天皇の役割は明治政府の考えた帝国主義天皇から離れてゆく必要がある。日本の天皇主義者もここをよく考えて、天皇の権威を利用して自分の考えの正当性を主張するのではなく、自らの思想を裸の形で一人の人間として表明すべきなのだ。

秋篠宮は普通の人のようだ。常識がある。その常識的な発言をする事すら、とても難しい立場にある。日本人全体が考えるべき問題なのだ。日本鶏が好きなようだ。声良鶏を飼っていたこともあると聞いている。自然養鶏の本も読んだという事を聞いた。風前の灯火となっている日本鶏の文化を継承できるのも、天皇家の象徴としての役割の一つではないだろうか。本気でそういうことを期待している。さらに伝統的なイネ作り文化を継承することも役割ではないだろうか。武ではなく、文をもって象徴となる。その為には東京を離れ、京都に戻るべきだ。修学院離宮に戻り、日本人の本来守るべき暮らしをしてもらいたい。象徴としての天皇家以外には、もう日本人の暮らしを継続できなくなるかもしれない。こうした考え方には、右翼の方は反発だけであろう。では天皇家はどうあればいいと考えているのだろうか。多分、明治帝国主義下の天皇家を天皇家だと狭い考えでとらえているのではなかろうか。

 

 

 

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