朝鮮徴用工に関する母の記憶

   

母が亡くなり、もう朝鮮徴用工の話を聞くことはできない。しかし、断片的に聞かせてもらったことは記録しておかなくてはならない。実態の分からないままの、感情論だけで日本人が韓国に反発しているからである。母は大正14年生まれである。戦時中現在の愛知淑徳大学に入学した。身体が弱かったので、体操をさせたいという祖父のあまり意味の分からない選択が押し付けられたのである。実はその背景には理由がある。母は甲府高女というところに通っていて、成績はそれなりに良かったらしい。根気の驚異的に良い、がり勉タイプの人だったから、一生懸命勉強したことだと思う。本当は医学系に進みたかったと言っていた。それだけの成績だったのかどうかは分からないが、優等生であったことは確からしい。医学系に進みたかった理由は、祖母が看護婦であったからという事がある。生まれた藤垈の向昌院が精神病患者の受け入れ場所になっていたことがある。祖父の黒川賢宗は僧侶であり、その院長でもあった。

もう一つが長島愛生園というハンセン氏病患者の収容施設の医師であった小川正子氏のことがある。小川氏は春日井という藤垈の近くの出身であった。その方は、ハンセン氏病患者に映画などを見てもらい、愛生園で暮らすことを進めるような活動を行っていた。今で思えばとても素直には受け取れない悲惨な話と裏腹である。しかし、当時はその話は本にもなり、母はとても感銘を受けていたようだ。母はその小川氏の話を聞き人間性に大きな感銘を受けたと言っていた。話を聞くうちに、自分もそういう仕事をしなければと思うようになったと言っていた。たぶん、それを祖父が遮り、淑徳大学に行かせたのではないかと想像している。祖父は正面から母の進みたい道を反対をするような人ではなく、巧みに人を誘導するような人であった。祖父はハンセンシ病患者に対する国の対応に疑問を当時から持っていた。そのことは小川氏のことが話に出た時に教えてくれた。

名古屋にある淑徳学園に行った母は学校に行ったというより、一年生の時から、たぶん、昭和18年夏ごろから、学徒動員で工場で働く毎日だったらしい。工場は三菱の軍事工場ではないかと思う。飛行機の羽の一部品を作ったと言っていた。煮えたぎる油の窯があって危険な工場だったと話した。その工場で大地震を体験したり、爆撃を受けたりしたことも話していた。風船爆弾を作ったという話もしていたが、それは名古屋の工場ではなく、甲府高女の時代ではないかと思う。そして、朝鮮の徴用工が大勢働いていたと何度か聞いた。工場は別棟で、自分たちが一緒に働くようなことはなかった。最初は怖い人たちと思っていたそうだ。しかし、朝鮮の人たちの工場から、朝鮮の歌をみんなで合唱する歌声が聞こえて来たという。そして時間がたつうちに、だんだん交流も生まれた。日本語を話したという。とてもやさしい良い人たちだったと印象深く言っていた。そしてとても可哀想な待遇だったとも言ったが、何が可哀想かは話さなかった。たぶん差別を受けていた状態のことだと思う。それ以上のことは話を思い出せない。

母は間違いなく軍国少女であった。祖父は日本は負けると何かの席で話したことをとがめられ憲兵に連れていかれるような人であった。母はその祖父に反発をしていたのだと思う。祖父と母は思いが違っていた。母は戦争が終わり、富士吉田で教員になった。ところが教員では暮らして行けなかったそうだ。そして、祖父の指示で弟と二人で相模大野での開墾生活を始める。その畑の隣で、やはり開墾生活を始めた笹村の祖母に気に入られて、父と結婚することになる。祖母は農業経験がなく、全く作物が出来ない。祖母の畑を母と弟の叔父が手伝ったらしい。畑が上手で働き者だというので、すっかり気に行ってしまった。ともかく食糧生産の時代である。母は私の開墾生活も助けてくれた。つい話がずれてしまった。朝鮮徴用工の人たちが差別され、反逆を危険視されていたという事を曖昧に話した。そのことだけでも書いて置く。日本人は戦時中、朝鮮人に対してひどいことをしたのを忘れてはならない。

 

 

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